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教養ある人が手に入れる宝物

教養ある女性

偉大な先人の書物や芸術、そして自分の国に連綿と受け継がれてきた文化を取り入れることで自分を成長させることを、「教養を身につける」と言います。

 

近頃はなおざりにされがちな「教養」ですが、生きて行く上での支えとなり、人生を彩り豊かにしてくれますし、時には恋愛のきっかけになるかもしれません。教養を高めるためのトレーニング法とあわせ、教養の様々な効用について見てみましょう。

 

教養とは、悩める人に寄り添う友人のようなもの

悩みを抱えている時、人は孤独を感じます。この世の中に味方など一人もいないような、絶望的な気分を味わい、暗い気分からの出口を見出せないと思ってしまいます。そんな悩める人に救いの手を差し伸べるのが、教養です。

 

悩み苦しみ、自分がどうするべきか答えを見つけられない時に、書物に救いを求める人も多いでしょう。そんな時に哲学の本を紐解くと、自分の悩みを客観的に受け止めることができ、一歩成熟した人生観を得ることができます。

 

1960年代、実存主義を世に広めたジャン=ポール・サルトルは「知の巨人」として世界中の若者たちに大きな影響を与えました。日本では、学生運動の思想的なバックボーンともなりました。

 

実存主義とは、戦後の喪失感がはびこる世界で、これから人間はどうやって生きて行くべきか?という問いに対して、新しい価値観を見出して行こうとする近代の哲学思想の一つです。サルトルは、自分の存在する意味を考えて日々を生きることの大切さを説きました。つまり、自分の生き方を探し続けることこそが、生きるということだと言ったのです。

 

実存主義のはしりは、サルトルより一世代前の作家、カミュやカフカでした。カミュはその著作『シジフォスの神話』の中で、不条理の英雄としてシーシュポスという登場人物を描きました。神々からの罰として彼は、転がる岩を山の頂上に運ぶという苦役を与えられました。

 

何度運んでも転がり落ちてしまう岩を繰り返し運ぶ、その行為は神々を怒らせるものですが、シーシュポスは気にすることなく続けます。これは生への情熱であると読み解くことができます。

 

何度運んでも岩が転がり落ちてしまうのと同じで、この世界は矛盾に満ちており、根本的に不条理なものです。その中で、世界に意味を見出そうと人間は努力をしています。自分が選んでこの世に生まれてきたわけではないけれど、自分の運命を受け入れ、自分の意思を貫き生を全うすることが必要だと、カミュは述べているのです。

 

20世紀前半のこの言葉を知ることによって、現在自分が抱える悩みや心に渦巻く暗黒からの出口が見つかることもあるでしょう。世の中、自分の思い通りにはならないものだ、けれどその中で自分で考え、道を選び取って行くこともできるはずだと考えることが出来たなら、教養があなたの味方になって、救い出してくれたことになります。

 

悩み苦しむあなたに寄り添ってくれるのは、もちろん哲学だけではありません。ドイツの作曲家であるシューマンは、芸術家の使命は、人間の心の奥底に光明を与えることである、という言葉を残しました。絵画や音楽などの芸術も、悩んで弱った人の心の支えとなって、苦しい時期を乗り越える糧になるはずです。

 

そういった時期に出会った教養は、あなたの心の奥深くに根を張り、これから先もあなたを支え、心を強く豊かにしてくれることでしょう。

 

教養とは、心にどっしりと根を張り、あなたを支える大木のようなもの

我が国では定期的にクラシックブームが到来します。話題のピアニストのCDがヒットしたり、名門オーケストラの来日公演のチケットが即完売になるなど、クラシック愛好者人口の多さを感じることもありますが、そのうち本当に心からクラシック音楽を求め、味わっている人はどれくらいいるでしょうか?

 

流行っているから、時間があるから、クラシックでも聴いてみるか、と考える人は実はかなり多いですが、これはあくまでファッションとしてのクラシック鑑賞であり、教養として捉えていることにはなりません。

 

教養はなんとなく触れるだけのものではなく、噛み砕いて自らの血肉とし、その結果自分を成長させてくれるものです。偉大な先人たちが遺してくれた文化や知識に出会い、自分の中に取り入れて初めて、その知識や経験は教養になるのです。教養を身に付けたことは、自分を支える大きな自信となり、折に触れて自分の中にある豊かさを感じることでしょう。

 

キリスト教やイスラム教などの宗教を信仰している人達は、教典である聖書やコーランが幼い頃から心の中にしっかりと根を張っているので、それだけで自分を豊かにし、支えとなります。一方日本では、特定の信仰を持たない人が多いと言われています。それならば尚更、教養を身に付けることで、心の支柱を何本か立てる必要があります。

 

その昔、旧制高校の生徒達は、貪るように教養を身につけることで「どのように生きるべきか」という問いに対する答えを探していました。学生同士で熱く議論を戦わせるその姿は、古代ギリシャにおいて「生きるとは何か」を極限まで追求し、「真善美」という真理にたどり着いたソクラテスにも重なるもので、人間として大きく成長する、尊い問答でした。

 

読書習慣は、日々のトレーニングで身に付く

ヨガインストラクターEIKOさんが書いたベストセラー本である、『どんなに体がかたい人でもベターッとできるようになるすごい方法』をご存知でしょうか?年齢・性別を問わず、この本の通りにトレーニングをすると4週間で180度開脚ができるようになるという内容です。

 

開脚ができるようになると、普段使わない筋肉が動くようになり、基礎代謝が上がるため、ダイエット効果も期待できると書かれています。ただし条件は、「毎日続けること」です。こういったストレッチや筋力トレーニングに共通して言われているのは、毎日決まったことを続けることの大切さです。

 

それはすなわち、日々のトレーニングや習慣を続けないと、効果は見込めないということでもあります。私たちはいつの間にか、東海道を新幹線で行き来するようになりましたが、江戸時代には自らの脚で歩き通した道です。毎日わずか3キロのウォーキングであっても、続けて行くうちにもっと長い距離を踏破できるようになるはずです。

 

このような日々のトレーニングは、脳にも効果をもたらします。1冊の本を読み切るというのは、脳と心にとってかなりの負荷がかかる作業です。特に難解な本、例えばニーチェの哲学書などは、慣れていないうちは1時間集中して読むだけで体力が消耗してしまうでしょう。

 

どんな本でもいいので、投げ出さずに読み続けることが大切です。ここが、「読書筋」を鍛え続け、難解だけれど自分を成長させてくれる良書に出会えるか、読むことが面倒くさくなって、ネットやテレビ止まりになってしまうかの分かれ道です。

 

日々活字に触れる読書筋トレーニングとしては、新聞も有効です。スマートフォンの普及などが影響して、ここ最近の新聞発行部数は減少の一途をたどっています。興味のあるニュースだけをインターネットで抽出してスマホで読む人が増えているということでしょう。

 

ですが、毎日新聞に目を通すという習慣は、手応えのある書物を読む力を養い、教養を身につけるのに役立ちます。しかも新聞には、ニュースの他にも様々な情報が載っています。

 

例えば日本経済新聞の朝・夕刊には「文化」面があり、美術から舞台まで幅広い知識を得ることができます。書評欄を読んだことがきっかけで、偶然自分のアンテナに引っかかっていなかった本との出会いが訪れるかもしれません。

 

毎日朝夕に新聞を読む習慣は、もはや高齢者のものとなっている感がありますが、「読書筋」を鍛える最も身近な方法です。特に若い学生達には、読書アレルギーを克服して、出会いが宝となるような、自分を高めてくれる一冊を手に取ってもらいたいものです。一度難解な本を読破できれば、その後の読書人生は明るく、実り多いものとなるでしょう。

 

知識を会話の中に引用できて初めて、教養となる

平安時代の貴族を始めとする教養ある層は、男性も女性も、和歌を詠むことがたしなみとされていました。また、男性であれば漢詩や和歌を、女性であれば和歌や物語文を暗唱することが平安貴族の教養でもありました。最古の勅撰和歌集である『古今和歌集』をすべて知っていることは、最低限のたしなみだったわけです。

 

そして和歌を詠む際に、いにしえの歌を引用する「引き歌」というテクニックは、詠み人の教養の高さや知性をにじませるものでした。紫式部の『源氏物語』にも『古今和歌集』の歌がしばしば引用され、当時の読み手であった教養ある貴族はそれに気づくとニヤリとしていたことでしょう。

 

引用するのは、簡単そうに見えて実は非常に難しいことです。例えば試験勉強のようにただ暗記しただけでは、会話のふとしたタイミングで引用することはできません。やはり、一度自分の中にしっかり取り込んでおく必要があります。その段階に行き着いて初めて、自分の教養となるのです。

 

先人の遺した文化・芸術を教養として持っている者同士だからこそ分かり合える、引用の愉しみがあります。あからさまにではなく、会話の端々に教養をのぞかせると、それを知っている人だけに伝わるメッセージとなります。これまでの日本では、そうしたさりげない楽しみ方があったのですが、近頃は廃れてきたことが残念でなりません。

 

難解な書物や芸術の全てを完全に理解しようと思わなくても、その一部に触れるだけでもいいでしょう。いつか、その作品を下敷きにした別の書物に出会った時に「あ!」と気づくことができれば、それはあなたの中に作品が根付いていることになるのですから。

 

教養がモテる決め手となっていた、平安時代の恋愛

教養はかつて、恋愛にも影響を与えていました。昔と今とで、恋に落ちる条件はどう変わったでしょうか?異性にモテるために努力すべきポイントの移り変わりを見てみましょう。

 

平安時代の貴族の恋愛は、相手と顔を合わせる前に和歌のやり取りをしました。そもそも女性は当時、親しい人以外の他人に顔を見せることはめったになく、話をするのも御簾越しでした。ですので、まずは和歌を通して相手を見定めていたのです。家柄だけでなく、知性や教養があるかどうかが恋愛の決め手となりました。

 

よりよい恋人を見つけるために、歌を詠む技術を磨くなど、自らの教養を高める努力を怠らなかった平安貴族にとって、恋愛は文化であった、と言うことができます。

 

では、現代の恋愛はどうでしょうか?内面よりもまずは見た目が重視され、恋愛のための「自分磨き」という言葉は、主に外見を整える意味で使われています。髪型やファッションを気にするだけでなく、モテるためには整形も厭わないほどです。

 

栄華を極めた平安時代の貴族に負けないくらい、豊かな暮らしを享受している現代の日本人ですが、精神的にはむしろ退行しているのではないでしょうか。外見だけで恋愛相手を選ぶのであれば、野生動物や鳥と同じになってしまいます。相手の持つ教養にも目を向けて、恋愛をしたいものです。

 

文化を突き詰めていくと、数学的思考に辿り着く

文化水準が高い国では、数学や科学技術も発展する

あなたは、文系ですか?それとも理系ですか?学問は便宜上、文系と理系のどちらかに分類されていますが、それぞれは影響を与え合っているので、本来は厳密に区別することはできません。

 

例えば数学は、突き詰めていくと哲学的な考え方に行き着くと言われます。0(ゼロ)の概念はインドで発見されましたが、これは「無」を形あるものに置き換えたという意味で非常に哲学的です。インドは数学が非常に発達しており、3000年前のインダス文明遺跡からも物差しや秤などが発見されるなど、その歴史も古いことが分かっています。

 

同じインドが発祥である仏教にも、数学的思想の片鱗を見ることができます。般若心経は、300字足らずで大乗仏教の心髄が説かれているとされる教典で、日本人に最も普及している教典と言っても過言ではありませんが、この教典で説かれているのは「空(くう)」という思想です。

 

「空」とは、肉体も精神も実体はなく、すべて人が考えた「観念」でしかない、ということです。この世界は存在してはいるけれど、それは不変ではなく、常に他者との縁によって移り変わって行くものです。変わらないものなど存在しない、これが「空」です。

 

この「空」をインドのサンスクリット語であらわすと「0(ゼロ)」と同じ「シューニャター」となります。同じ意味では使われていませんが、同じインドを起源とする数学と仏教の重要なキーワードに同じ言葉が使われていることは、非常に興味深いことでもあります。

 

古代ギリシャの数学者であり哲学者でもあったピタゴラスは、直角三角形の3辺の長さの関係を表す三平方の定理を発見したことでも知られていますが、紀元前6世紀に「万物は数なり」という思想を確立しました。

 

宇宙のすべての物事は、数字と計算で説明できるという考え方です。音楽の旋律も、楽器の響きさえも、数字の裏付けがあるという考え方です。

 

つまり、文化の水準が高い国では、数学を始めとする科学技術も発達すると言い換えることができます。現在理系科目とされている数学と、文系科目とされている哲学がかつて不可分であったことの表れでしょう。文系だからといって毛嫌いせずに、ぜひ数学について知り、教養を深めて欲しいと思います。

 

数学の持つ美しさは、日本文化に通じるものである

我が国も、古代より文化を連綿と紡ぎ、発展させてきました。そんな日本も、これまで優秀な数学者を輩出してきました。古くは江戸時代の関孝和に始まり、数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞者もこれまでに3名います。数学と日本文化の発展とはどのような関連性があるのかについて考えてみましょう。

 

まず、日本文化の特徴をおさらいしてみます。日本文化は「削ぎ落とす」文化であると言われます。例えば華道ならば余分な枝葉を落として花を際立たせ、茶道であれば茶室の設え、お手前の動作など全てに無駄がありません。伝統文化や芸術も突き詰めて考えて行くと、シンプルな美にたどり着くことがよく分かります。

 

究極の言葉の芸術といえば俳句でしょう。無駄な言葉を削ぎ落とし、五・七・五という最低限の言葉の組み合わせで壮大なイメージを表現する定型詩です。決められた型があり、季語も盛り込まなければならないなど多くの制約があるからこその美しさは、短くて美しい数学の定理と相通ずるものがあります。

 

物事の本質を、もっともシンプルな形で切り取る、これが数学という学問です。数学の世界には「美しい数式」という表現があります。有名なものとして、アインシュタインが特殊相対性理論によって導き出した「E=mc2」があります。

 

この公式は、物体のエネルギーは、質量と光の速さを使って計算できる、というものですが、このシンプルな式の中に、光速の二乗というとてつもなく大きな値が入っています。これにより、質量を持つ物体は大きなエネルギーを持っているということが証明されたのです。

 

その後、この式を使って、今までただの「不思議な現象」だったことが次々と説明できるようになりました。最終的には原子力という考えに結びつき、原爆の開発に繋がったという意味でも、人類に大きな影響を与えた数式だと言えます。

 

数学の世界はこのように、美しい数式で物事の本質を切り取っていく、興味深い学問です。数学について知り、教養を深めることができれば、これまで「ただの数式」であったものの美しさに、驚きの声を上げることができるようになるのです。

 

教養がその国の文化を形作っている

学問に限らず、長年知識や経験を積み重ねてきたものは教養と呼ぶことができます。例えば日本では、スポーツも立派な教養です。特に野球は、日本では長く国民的スポーツとして人気を博しており、高校野球・プロ野球ともにTV中継される試合も多く、野球ファンの獲得に一役買ってきました。

 

日本の野球中継は進化を重ね、球種から球速、選手の個人データなどマニアックな情報が画面に表示されています。それに加え、野村克也氏や古田敦也氏、桑田真澄氏のような理論派が丁寧に解説してくれるのです。厚みのある文化を背景に持つ私たち日本人は、こういった知識を吸収し、教養としたのです。いまや野球ファンは皆、いっぱしの解説者です。

 

スポーツで言えば、日本のお家芸とも言われる体操も同じです。東京オリンピックの遠藤幸雄、モントリオールの塚原光男が先駆者となったことで、それに憧れた子供の体操人口が増え、日本体操界のレベルそのものが上がってきたと言えます。

 

スポーツ以外では、将棋も一般の人々に深く根付いた文化であり教養です。日頃から街中で大人が将棋に興じる姿を見たり、おじいさんやお父さんに教えてもらう経験を通して、私達は将棋文化を教養として身に付けています。こうやって将棋人口が厚みを増したことにより、羽生善治さんや藤井聡太さんのようなスターが生まれたのです。

 

厚みのある文化を持つ国では、優れた先人が道筋をつけてくれることにより、様々な領域に知識が蓄積されます。人々は子供のうちから触れる機会に恵まれ、結果豊かな教養として受け継がれて行きます。

 

そういった意味で、日本は非常に恵まれた国です。あなたも何か新しい分野に興味を持ったら、ぜひその世界の先人の偉業を紐解いてみて下さい。より深い知識と教養を手に入れて、一回りも二回りも自分を成長させることができるでしょう。

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