忙しい父親にこそ可能な育児とは

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忙しい父親

子どものことは可愛いと思っているし、可能ならもっと一緒に過ごしていたいと考えている父親は多いと思います。しかし、実際には毎日の仕事に追われ、思うように時間が確保できない、というのが正直なところではないでしょうか。ここではそんな忙しさの中にあっても家事や育児に取り組むための工夫について見ていきたいと思います。

 

子どもと一緒に過ごしたいのはやまやまだけど

若い父親たちに話を聞いてみると、家族のために毎日忙しく働いているにもかかわらず、家庭や子どものためにまとまった時間を割くことができないという申し訳なさを感じている人が多くいます。このように、家庭や子どもとの時間をもっと取りたいと考えているにも関わらずそうできないということで父親たちが悩んでいるという事実は、いくつかの調査でも明らかになってきています。

 

6歳までの子どもを持つ父親たちに対して行われたある調査によれば、96%もの父親が自分の子どもが可愛くてしょうがないと回答しているにも関わらず、実際に平日に子どもと過ごしている時間が1時間未満という人が約37%、1時間から2時間が約27%ほど、2時間から3時間が約19%となっており、全体の8割以上が3時間未満しか時間が取れていないという実態が浮かび上がってきます。

 

こうした日本の父親の現状をお隣の韓国、中国などと比べると、やはり日本が一番時間が少なくなっており、そして日本の父親のうち半数以上が家のことや子育てに今よりも関与したいと回答しているのです。

 

一方で、日本の父親が家のことや子育てに関与している時間についても調査が行われていますが、平成17年と平成21年に行われた調査の結果によればそうした時間の長さはほぼ変わっていません。また、会社を育休で休んだ父親の数もそんなには増えていないという結果が出ています。なお、日本の父親たちに育休を使わない理由を尋ねると、1/3以上の人が周囲に迷惑をかけてしまうからという理由を挙げるほか、忙しいためにとれそうもないという理由を挙げる人が約3割にのぼっています。

 

また、父親が感じている不安について尋ねたところ、子どもが成長して教育費がかさむのではないかという心配をする人が約7割にも及んでおり、次いで育児費用についての心配が約6割、収入が減らないか心配であるというのが5割弱という結果となり、金銭的な面での不安や心配が上位を占めるに至っています。ここからは、子どもたちと向き合う時間は増やしたいけれども、生活の先行きに不安があるためそうもできない、といった父親事情が透けて見えてくるようです。

 

父親だって現状に問題があることは理解している

世の父親を取り巻く困難さはこればかりではありません。家庭で必要とされていると感じるかについて尋ねた質問に対し、自分は家庭の中で妻にとても必要とされている、と回答した父親は平成21年時点でわずか2割ちょっとしかいなかったという結果が出ています。この点でも日本は韓国や中国に比べて圧倒的に低く、また平成17年の調査と比較すると約14%も数値が下がっています。このことから、子どもはものすごく可愛いと感じているものの、先行きに不安があるために頑張って毎日遅くまで働き、しかし家庭ではあまり必要とされていないのではないかと不安になっている、といった父親たちの悩ましい姿が見て取れます。

 

日本の父親たちは、子どもと過ごす時間や家事育児にまとまった時間を取りたいけど取れない、しかしそれではよくないことも重々承知している、といった感じで毎日を過ごしていることかと思いますが、それに対して仕事よりも家庭が大事でしょうであるとか、育児休暇も思い切りさえあれば取れるもの、などと言っても仕方ありません。

 

そのような、理解しているのにできていないのは気持ちの問題である、というような論調は、お酒をやめられないであるとか肥満であるのは意志の弱さが問題である、という言い方と同じであり、意味がないばかりか本当の問題点を見えにくくしてしまうものでしかないと思われます。

 

それでも家事や育児に対する意識は上がってきている

日本の父親が自分の子どもたちと過ごす時間が平日では韓国や中国に比べて最も少ないという調査結果がある一方で、休日の事情を見るとそれとは異なる結果が見えてきます。休日に子どもと過ごす時間に限定してみると、日本の父親が一番長くなっているのです。ここから分かるのは、日本の父親も自分の子どもたちともっと長く時間を取って過ごしたいと感じているということではないでしょうか。つまり、気持ちはちゃんとあるけれどもさまざまなことがそれを邪魔しているのではないかということです。

 

さらに、韓国や中国に比べて時間が少ない平日についても、働いている時間や通勤にかかる時間の合計を1日の時間から抜いた時間当たりで見れば、日本の父親たちも相当時間を割いているということが分かってきます。

 

また、日本の父親が家のことや子育てにどのように関与しているのかを調べると、関与している時間そのものはあまり増加していない一方で、回数の方はより増加してきているという実情が浮かび上がってきます。つまり、育児や家事に対する父親の意識は間違いなく高まってきており、ひとまとまりの時間として長い時間は関与できなくとも、せめて短い時間でもこまめに関わろうとするようになっているということです。これは、仕事や通勤に忙しすぎる日本の父親たちが見つけた一種の解決策と言えなくもないかもしれません。

 

まずは今できることを精一杯やるのが大事

父親は仕事が忙しくなっており家事や育児になかなか関われずたいへんであるということは、一方で母親にも負担がかかっているということを意味します。しかし、父親と母親がどちらがよりたいへんな思いをしているのかと言い合ってみたところで何の解決にもならないばかりか、家庭内に不和ばかり生じて誰も幸せになりません。それよりも、父親も母親も互いの現状を相手に理解してもらい、互いの現状に理解を示して相手に思いやりの気持ちを抱くことが重要です。

 

忙しいのは何も父親本人が悪いわけではないし、家庭や子どものために今からでもできる限りのことをすることが重要です。こうした意見を聞くと、まとまった時間を割くことができないことに忸怩たる思いを持っている父親たちは決まって表情が明るくなります。彼らも意識が低いわけではけしてないからです。

 

毎日家事や育児に奔走している母親の側から見れば、「できる限りのことをすることが重要」などという悠長なことでは困るという意見が出てきそうですが、とはいえ仕事の忙しさを自分では如何ともしがたいという現実がある以上、それを言っても絵に描いた餅でしかありません。まずは現在置かれている状況をわずかなりとよく変えていくことが大事ですし、そのためには父親たちが時間のことを気に病まずに家事や育児に従事することが大切なのではないかと思われます。

 

仕事ではなく家族との時間を充実させる方が「簡単」

父親が仕事が忙しく、家事や育児になかなか時間を割けずにいるという話題になると、決まって登場するのが、「仕事のやり方を見直し、能率を上げることで時間を捻出してそれを家族のために当てましょう」という考え方です。

 

これは一見理に適った提案に見えますが、よく考えてみましょう。どうして考えの先が「仕事」に行ってしまうのでしょうか。頭の中に仕事が常にあるためにこうした考え方が起きてくるのだと思われますが、それは心のどこかで仕事を家庭よりも大事にしてしまっているということにはならないでしょうか。さらに言うなら、こうした発想は家族にとってよりも雇い主にとってこそ都合がいい考え方だとは言えないでしょうか。

 

少し本筋から外れますが、スマートフォンをはじめとするIT関連技術に関して見ても同様の指摘をすることができます。たいていの場合、何かを効率的にすることができそうなデバイスができると、それを使って仕事の能率を上げられる、と考えがちです。そういったデバイスはまず仕事に利用するもの、といった考え方が世間一般にあるためかと思いますが、どうしてそういった新技術をダイレクトに家族のために使わないのでしょうか。

 

例えば、誰でも手軽にWeb経由でコミュニケーションを取ることのできるSkypeというソフトがあります。このSkypeにはビデオ通話機能もあり便利なのですが、こうした機能が使えることが分かった時に、これでいつでもどこでも仕事の打ち合わせができる、と考えるのではなく、これでいつでもどこでも子どもの顔が見られる、という考え方をするほうがいいのではないか、という意見です。

 

この例と同じように、どうせ忙しい時間を効率的に使おうとするのであれば、仕事に割いている時間を充実させるのではなく、家族のために割く時間をよりよいものにしようと考える方が、より理に適っているのではないでしょうか。

 

さらに言えば、仕事の現場は最近では効率化がかなり進んでいますので、そこでさらなる充実を図るのはかなり大変なのではないかと考えられます。家族との時間にはこうした効率化は(おそらく)ほとんど図られていないのでしょうから、そちらを充実させることに意識を向けた方が簡単に大きな利点を得られるのではないでしょうか。

 

無理をせず長続きさせられるやり方を模索すべき

仕事のやり方を見直して能率を上げれば家族のために使える時間も増える、という言い方には、根本的な部分に見落としがあります。

 

最近でこそ景気は回復傾向にあると言われるようになってきましたが、それ以前の長い不景気のために多くの職場で人減らしが進んでいます。中には、業務は増えるのに人が減らされたり、新たな人が入ってこなかったりして社員一人当たりにかかる仕事量の負担が相当増しているというような職場もあることでしょう。つまり、仕事のやり方を見直そうにも相当の効率化が進展してしまっているという現実があるということです。

 

それでもなんとか無駄を見つけ出して自分の仕事の能率を上げたとしましょう。仮にそうできたとして、はたして自分の職場はそれで早く帰宅できるような状態にあるでしょうか? 多くの場合、他人よりも能率的に仕事をこなせる「できる」人にはより多くの仕事が回ってくるものです。つまり、仕事のやり方をどれだけ見直しても早く家に帰宅できるかはわからないのです。

 

そんな状況にある中で仕事の能率を上げるというのは、カラカラに乾燥した雑巾からさらに水分を搾り取ろうとしてぎゅうぎゅうに絞り上げるようなものです。極端な無理が生じるばかりか、最悪の場合雑巾が破れて使い物にならなくなってしまいかねません。このようなやり方は、もう想像できるかと思いますが、あまり効果が上がらないばかりか長続きするものでもありません。

 

そもそもの目的は育児にもっと関われるようにすることです。そのような長続きさせにくいやり方を考えるよりも、無理なく続けていけるようなやり方であることが大事なのではないでしょうか。

 

家族に使う時間は量ではなく質を追求する

ものすごく大変な思いをして仕事の能率を上げ、それで家庭に割く時間を捻出して増やしたところでさほどいいことがあるわけではありません。ものすごく頑張って仕事の能率を上げているのに家庭に割く時間は思うほど増えないことは目に見えています。そうなれば、もっと能率を上げなくては、という考え方に再び陥ってしまうのではないでしょうか。

 

そんなことをすれば気持ちにも余裕がなくなってくることでしょう。そして、気持ちに余裕がなければ育児で大変な思いをしている妻の気持ちに寄り添うことなどできはしませんし、子どもに対して気兼ねのない笑顔を向けることもできなくなってしまうでしょう。結果的に、頑張れば頑張るほどギスギスして妻や子どものと間にすきま風が吹いてしまいます。そして家庭がそんな状態では仕事にも悪い影響が出るでしょう。しまいには、ストレスを溜めてしまったり、自分のことを駄目な父親だなどと考え始めてしまったり……というような悪循環が起きることにもなりかねません。

 

最近ではイクメンなどという言葉をよく聞きますが、イクメンとして頑張ろうという気持ちが強ければ強いほどこのような悪循環にはまりがちです。実際、こうした悪循環にとらわれてしまって悩む父親が増えているともいいます。

 

どんなに仕事の能率を向上させたとしても、世の中自分の思い通りに行くことばかりとは限りません。突発的な問題が発生したり、顧客に急な呼び出しを受けたりといったように、自分一人の努力では如何ともしがたいような状況も発生するでしょう。あるいは、頑張って自分の仕事を見直し、これ以上はできないぐらいに能率を上げたとたんに他の部署に異動となったり、別の仕事の担当になってしまうかもしれないのです。

 

忘れてはいけないのは、時間というものは有限であり、いつも思い通りに使えるものではないということです。このため、家族のために使う時間を充実したものにしたいのであれば、まずはそうした時間の量が今よりも確保できればいいという発想を捨てることが大事になってきます。そして、限られた時間しか使えないのだからその時間でより「質のいい」活動をしよう、といったように考え方を変えるのです。

 

家族と過ごす時間は今までとそう変わらなかったとしても、その時間の中身をより充実させることができれば、たとえ仕事のほうで問題が発生したとしても育児により深く関わることができるようになります。そういう方法を模索する方が、自分自身や家族にとっても、そして仕事の面でもより現実的なのではないでしょうか。

 

大事なのは、家族の心の中で父親がどれだけ大きな位置を占めているか

では、どうすれば家族と過ごす時間の中身を充実させられるかを考えてみましょう。中身の充実というと少々曖昧で捉えにくい概念になってしまって分かりにくくなりますので、「家族みんなの心の中で父親がどれだけ大きな位置を占めているか」という見方をしてみてはどうでしょうか。

 

つまり、父親が関わった「家族みんなの時間」がものすごく楽しく感じられるようにするのです。「お父さんがいると楽しいね!」と家族みんなが思ってくれるような時間の使い方をするということです。そうすれば家族の中で父親の存在感が増し、同じ時間でもより家庭や育児に深く関わることができるかと思います。

 

頑張って仕事を早く片づけて家に帰ってきたとしても、そこで特に工夫もせずに携帯を眺めていたり、ゲームやTVにばかり気を取られていたとしたら、家族のためにいい時間を過ごした、という感じはしないでしょう。

 

一方で、一日のうちほんの数分であっても楽しく面白いと感じられるような時間を家族全員で分かち合うことができたのであれば、その次の日に父親が残業で帰りが遅かったとしても家族は父親の存在感を感じていられることでしょう。

 

家族全員で分かち合える「楽しく面白いと感じられるような時間」とは、後で思い起こすだけで思わず笑みがこぼれてしまうような、そんな幸せな時間です。

 

人間の脳は、そういった幸せな時間を思い返すだけで、現在実際に幸せな時間を過ごしているかのように錯覚してしまうようになっているといわれています。あたかもDVDを何度もかけて名シーンを見返し、そのたびに感動することができるかのように、幸福と感じた時のことを何度も思い返してそのたびに幸せだと感じることができるわけです。

 

このように、父親と一緒に過ごした時間をものすごく楽しい時間と感じさせることができれば、それを思い返した回数だけ、妻や子どもにとっての父親の存在感は増すことになります。本当に楽しかった5分間を12回思い返せば1時間ぶんに、120回思い返せば10時間ぶんになるのです。このように何度でも思い返したいと思うような幸せな時間を家族と共有し、皆の頭に強い印象を与えるような時間を過ごすようにすればいいのです。

 

毎日数分の濃密な時間を作り上げよう

短い時間であっても、家族みんなに強い印象を与える……そうするには、短い時間をどれだけうまく使っていくのか、あるいは、短い時間でどんな工夫を凝らすのか、といったことが大事になってきます。ではどのようにすればそういった工夫ができるようになるのかですが、これは結局頻度を増やして何度もやってみるしか上達するすべがありません。

 

例えばサッカーのように前半後半にそれぞれ45分ずつかけるようなやり方ではなく、ボクシングのように3分1ラウンドで15ラウンドをかける、というようなやり方をすることで頻度を増やすことができます。そういう意味でも、1日数分という時間でもいいので家族のために毎日捻出するというやり方の方が効果があると言えます。

 

わずか数分であっても侮ってはいけません。その数分数分に最大限取り組む必要があります。言い方を変えれば、わずか数分の間に他の家族のメンバーの気持ちの中に大きな印象を与えることができるように、自分で自分を追い詰める必要があるということです。まさしくボクシングのように、3分一本勝負、といったところでしょうか。

 

このように、わずか数分しか時間が取れなかったとしても、その数分を濃密な時間として家族と共有することができれば、子どもだけでなく妻に対しても父親の存在感を強く示すことができます。そして、その記憶がまだ新しいうちに続けて強い印象を残すことができれば、子どもや妻の気持ちの上では父親の存在感は大きなものになり続けることになるでしょう。

 

毎日忙しく働いている場合、休みの日以外はまとまった時間がなかなか捻出できないという人であっても、毎日数分であれば工夫次第で捻出することはできるかと思います。時間的にはスポット的で構わないので、その瞬間にすべてをつぎ込んで家族の気持ちに父親の強い印象を残す。それが、たくさん時間は取れなくとも家族との時間を充実させることにつながっていくのです。

 

子どもの集中力は長続きしない

乳幼児の教育をしている人たちの間では、小さな子どもは「子どもの年齢+1分間」しか集中力が持続しない、と言われています。例えば4歳の子どもであれば集中力はせいぜいもって5分、というわけです。このため、小学校の授業時間が1時限50分だとすると、子どもの集中力がとてももたないため、その内容に工夫をするといいます。例えば小学生のうち低学年向けの教育プログラムでは、およそ10分程度で終わるプログラムを並べて作られるというのです。

 

こういった事実から考えるなら、例えば子どもが2歳以下であれば3分ほど、子どもが4歳なら5分ほど、それぞれ子どもが瞳を輝かせて楽しんでくれればそれでとりあえずOKということになります。どのみち、それより長いと子どもの方が飽きて注意を他に向けてしまうためです。大事なのは子どもの興味を長く引きつけようとすることではなく、子どもが楽しんでくれるようなことを次から次へと繰り出せる手数の方だと言えるでしょう。

 

子どものこうした特徴を考えれば、毎日何時間も子どもに接することができなくても、子どもに楽しい思いをさせることは工夫次第でいくらでもできるということになります。

 

日々の生活の中で数分だけ子どものために時間を捻出し、そこで楽しい思いをさせる。そしてそれを毎日続けていくということが大切ですし、そのほうがまとまった時間を作るよりもやりやすいのではないでしょうか。子どもにとっても、父親が自分のために毎日時間を作ってくれるとなればうれしいでしょうし、そうした努力は妻も必ず認めてくれるはずです。

 

短い時間だからこそ集中してとりかかろう

長い時間ではなく数分間の時間を設け、そこで子どもに楽しさを感じてもらう――そのためには、何よりも自分がその作業に集中していることが大事になってきます。

 

毎日忙しい中で家族に接していると、ついやりがちになってしまうのが「ながら相手」。ついつい、思考の隅で明日の仕事のことを考えながら子どもたちの相手をしてしまうといったことです。はじめは子どもたちと楽しく遊んでいたのに、そのうちに心が明後日の方向に飛んでしまっている――そういった雰囲気には子どもは敏感に気がつきます。「ちゃんと聞いてる?」などと子どもたちに叱られてしまうようでは目も当てられません。

 

こんな状態では、子どもの興味を引きつけて楽しませることなど夢のまた夢です。そういった調子で子どもに接している限り、仮に数十分、数時間を一緒に過ごしたところで子どもを楽しませることなど絶対にできません。女性とのデートの最中、相手の女性がいつも別のことを考えていたとしたら、楽しいデートになるでしょうか。子どもや家族と過ごす時間もそれと同じことなのです。

 

父親の相手次第で子どもの将来に影響が及ぶ

父親として子どもに接する時にそれに集中していないことは、子どもが楽しめないという以上に危険な行為です。というのも、それを感じ取った子どもが「自分はいつだってお父さんにちゃんと相手してもらえない人間なんだ」、などといったようないびつな感じ方をしてしまうようになりかねないからです。

 

ひどい場合には自分に価値を見いだせない子どもになってしまい、自分は親に愛されていない、邪魔者だと思われている、といったネガティヴな考え方をはじめてしまいかねません。こういった歪んだ自己価値観は子どもにとっては有害なものです。

 

そんなふうにしてしまわないためにも、子どもたちと接する時には仕事を含むその他のことを頭の外に追い出して、ちゃんと集中して取り組んであげるようにして下さい。父親として子どもに集中して取り組むことができれば、たとえ数分であってもその時間は充実した内容のものになりますし、子どもたちはそれを感じ取って安定した高い自己価値観を持つことができるようになります。

 

高く安定した自己価値観を持つことができた子どもは、将来的にはいい意味での楽観性を備え、どういった状況においても辛抱強く着実に取り組むことができるようになります。そしてそうした力は、子どもが成人してからよりよく生きるための力になります。これは子どもにきちんとしたしつけをすること以上に重要なことなのです。

 

オール・オア・ナッシングの考え方をやめる

長い時間を取れず、数分間でもいいので毎日充実した時間を子どものために用意する――しかしこうなると、実際に1回あたりにできることは限られてしまいます。ほんのちょっとしたこと、例えば絵本を終わりまで読んであげるといったことすら難しいと思われる方もあるのではないでしょうか。

 

しかし、例えばこの絵本を読んであげるという行為、読み始めたら最初から最後まで読み切ってあげなければならない、と考えるのは何故なのでしょうか。子どもは別にそんなことまで求めているわけではないのですから、子どものために使える数分間で可能なところまで読んであげたら、「続きはまた明日」でも構わないのです。

 

子どもに「おねんねする前に絵本を読んであげる」と約束していたにも関わらず、何か事情があってそれをする前に子どもの寝る時間になってしまうようなことは往々にして起こります。こういう時に、「今日はもう遅くなっちゃったから、絵本はこんどにして早く寝よう」などとやってしまうと子どもは悲しさを覚え、ひどい場合には腹を立ててむずがりなかなか寝付いてくれない、などということが起きたりします。

 

こういうケースでは、「今日はもう遅くなっちゃったから、絵本の最初の2ページを読もうか。残りは明日にとっておこうね」といった具合に、少しだけでいいので約束を守って絵本を読んであげればいいのです。約束を反故にされたのとは違い、子どもはちゃんと喜んでくれるでしょう。

 

このように、子どもに対する時にオールオアナッシングの両極端な考え方は必要ありません。そのときできることを可能な限りやるということが大事なのです。仕事の場面でも、なすべきことをすべてできなかったとしても、できる限りのことをすることによって顧客に満足感を感じてもらうことはできますし、そういったケースはよくあります。育児においてもそれは同じなのです。

 

家族との時間を多く取れないのはデメリットばかりではない

父親が毎日忙しく、特に平日などには家族との時間をまとまってとることができないという前提に立って見てきました。確かに一般論としては、家族と過ごせる時間は長ければ長いほどいいものかと思います。しかし、まとまった時間を取れないことは必ずしも悪いことばかりではありません。というのも、はじめから家族と過ごせる時間がふんだんに取れるような環境下では、毎日数分といった限られた制限の枠内を充実したものにするといった感覚を磨きにくくなってしまうからです。

 

ちょっと話は異なりますが、誰か異性との交際を始めたころ、すぐに同棲したりして毎日ずっと一緒にいたりすると、新鮮味や魅力をすぐに感じられなくなってしまいます。これが1週間に1回、週末にしか会えないということになると、その短い期間でどうやって相手と楽しもうと考えながら毎日過ごすことになり、実際に会っている時間は2人にとってより特別な時間に感じられたりするものです。

 

そしてそこで楽しむことができれば、続く1週間もその楽しさを思い出しながら頑張ることができます。最初からずっと一緒にいるよりも、たまにしか会えない方が気持ちは高まるものではないでしょうか。そして、その方が限られた時間で相手を楽しませるための努力をする気になり、またそのためのスキルも上がるのではないでしょうか。

 

こうした関係性は、父親と子ども、父親と母親の間にも言うことができます。確かに家族と過ごせる時間が長いに超したことはありません。しかし、それも「家族との時間を充実したものにしよう」という意識がしっかりと芽生えていてこそのものです。そうした意識があるかないかによって、一生のうちに家族で共有できる時間の充実度合いがまったく異なってきます。

 

家族との時間をまとまってとることができないという条件があるからこそ、逆に家族と過ごせる時間を充実したものにしようという意識を持てるようになるという考え方もあるわけです。

 

子どもとの時間をまとまって取れないからこそ見えてくるものもある

家族との時間をまとまってとることができないからこそ得られる利点は他にもあります。それは、子どもに対して母親とは違った視点を持って接することができるということです。

 

母親が子どもと緊密な距離感を保って毎日を過ごしている場合、子どもの持っているよい面よりも悪い面の方に意識が向かいやすくなり、あれも駄目、これも駄目、といったように少々過剰に干渉してしまいがちになるものです。これはある意味仕方のない心理です。子どもとの距離感が遠かった父親が、例えば何かあって一人親になるなどして子どもとの距離感が縮まった結果、それまで母親がしていたように過剰な干渉をするようになっていた、といった話はよく聞くものだからです。

 

自分たちの子どものことについて、互いに少し異なる位置からの視線を投げかけ、それで見えてきたものごとを夫婦で分かち合う。そのようにすれば、自分たちの子どもの姿がより立体的に見えてくるようになります。緊密な距離感を保っていた時には見えなくなっていたような子どものいいところ、少し離れたところからは気づきにくい子どもの悪い面をお互いに理解することができるようになるのです。このように、子どもとの時間をまとまって取れない父親ならではの子どもへの視線というものは非常に大事になってくるものなのです。

 

忙しくてあまり構えないからこそよい距離感を保てる

また、子どもとの時間をまとまってとることができなければ、子どもに何かをはじめから終わりまで手取り足取り教えるわけにはいかなくなりますし、子どもが何かできるようになるのを一部始終見届けることもできなくなります。こうなると、父親が忙しければ忙しいほど、子どもには何かをするための環境を与え、ちょっとした示唆やヒントを教えるだけになり、「あとは自分なりにやってみて」ということが増えてきます。

 

子どものすることを一部始終見ていたい、あるいはいろいろなことを細かく丁寧に教えてあげたいという親の気持ちは分かりますが、こと子どもの教育という観点から見た場合、それは逆効果になりがちです。むしろそうしてしまうことで、独力では何もできない子どもに育ててしまう危険すらあるのです。

 

子どもはある程度放っておかれることで、自分一人でいろいろなことができる子どもに育ちます。中国のことわざに「授人以魚 不如授人以漁」というものがあります。「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが釣りを教えれば一生食べていける」といったことを意味するもので、飢えているからといってただ魚をあげていても根本的な解決にはならないということを言ったものですが、子どもに大まかなやり方や環境だけを与えてあげてあとは自由にやらせる、という育児のやり方はまさにこういうものではないでしょうか。

 

子どもにものごとを1から10まで教え込むのではなく、子どもの興味や好奇心を刺激し、そしてそれを成し遂げることができるような環境だけを用意して、子どもの自主性をはぐくみ自ら能力を開発していけるようにする、それこそが本当の教育ではないかと思われます。

 

福沢諭吉は、英語の“Education”という単語の訳について、「学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり」と言っています。つまり、「教育」という訳語はよくないので、子どもが本来持っている資質を発達させ育むという意味で「発育」と言うべきだというのです。

 

一流と言われるような学校の方針を見ていると、そういうところほど子どもたちの自主性を引き出すようなやり方を取っています。子どもたちには問題解決のヒントだけを与え、あとは独力で問題に取り組むように指導しているのです。そうすることにより、誰かから答えを教えてもらうのではなく、自分で答えを見つけようという意欲を持った子どもを生み出すことができます。こういった子どもは、万一身辺に何かあったような時にでもうろたえず、問題を解決するためのやり方を冷静に模索することができるように育つでしょう。これこそが生きていく上で必要となる能力ではないでしょうか。

 

子どもと常に一緒にいられるような位置にいる一方で、意識してある程度の距離をあけることで子どもの自主性を育てるというのは、実際に教育現場で常日頃子どもと接している教師たちにとっても難しいことであるといいます。そのように、子どもとの距離感はたいへん難しいものなのですが、多忙なためにあまり自分の子どもとの時間が取れない父親の立ち位置というのはまさにそれゆえに理想的な位置に立てる位置でもあると言うことができます。父親として、忙しくて子どもに事細かく構ってやれないということを気に病む必要はなく、むしろプラスにとらえることができるということです。

 

父親は母親ができない視点で育児に参加

忙しくて育児にあまり時間を割けない場合、1日数分というようにわずかな時間でもいいので充実した時間を育児に振り向けることが重要になってきます。こういうときに重要になってくるのは、そうした時間を使って何をするかの順位付けをきちんとするようにすることです。1日に使える時間が限られていればいるほど、そこで何でもやることはできなくなってくるものだからです。

 

時間の限られた状況で父親が目指すべき育児は、母親の苦手な分野や、やりたくないと感じていることで、なおかつ自分の得意分野であるようなものをするというものです。

 

かつて日本で主流であった家族のあり方、いわゆる「大家族」においては、同じ屋根の下に祖父母がいて、たくさんの兄弟がいて、中には叔父や叔母が同居していたりしたものです。また、家の外に出ても近所づきあいが濃く、近所の家にもたくさんの子どもたちがいたというような環境でした。

 

こういう環境下では、父親の言葉と叔父の言葉に齟齬が起きたりすることは日常茶飯事。母親に叱られた子どもを祖母がかばったり、近所のおばさんにむやみにかわいがられたり、といったようなさまざまな人間関係にもまれて育つことになったはずです。

 

子どもたちはそんな中でさまざまな経験をして育ち、いろんな人の考え方に触れて育っていました。そうしたことにより、世の中にはいろんな人がいて、いろんな意見を持っているということを知り、何か1つだけが正解ということはけっしてないのだということを学んで育ったものです。大家族であることを礼賛するつもりはありませんが、結果的にそうしたことによって子どもたちはたくましい人間に育っていったという面はあるでしょう。

 

一方で最近の状況に目を向けると、まず父親は仕事に忙しくてなかなか家に帰ってこず、核家族化の進展によって祖父母とさえ同居していない家庭が増えています。また、少子化によって一人っ子が増えていることもあり、中には毎日母親と一緒にずっと過ごすような子どもが増加しています。昔の大家族の時代とは異なり、日々子どもが触れる人間の数が圧倒的に少なく、世の中にはいろんな人がいて、いろんな意見を持っているというようなものの見方をなかなか育むことができなくなっているのです。そのため、たくましさに欠ける子どもが増えてきているとも考えられます。

 

こういった現状を踏まえた時、父親の果たすべき役割も自ずと見えてきます。子どもの周囲に欠けがちである多様さといったものを補うような位置取りに付くべきではないかということです。どういうことかというと、母親が果たしている役割と同じことをするのではなく、母親が果たすことのない役割をこなすようにします。そのようにすることで、母親と父親がそれぞれ別な視点から子どもに接することができるようになるため、子どもたちの育児に奥行きが出ます。子どもたちのものの見方にも多様性がもたらされることになることでしょう。

 

父親は母親ができないこと・苦手なことをする係

母親に叱られてしまってしょんぼりしている子どもを慰めてくれる祖父母、少し離れた位置から眺めて子どもに接する叔父・叔母の立ち位置。こうした位置取りは、子どもに真正面から接することの多い母親にはなかなかとることができないものです。そして、子どもとの時間をなかなか持てない父親だからこそ、こうした位置取りを意識的にするようにしてみてはどうでしょうか。

 

他にも、昔なら近くのガキ大将が担っていたような役割、たとえば母親に知られたら叱られてしまいそうな「ちょい悪」遊びやイタズラを教える役割を担ってみてもいいかもしれません。昆虫を捕らえたり、木登りのやり方を教えたり、泥まみれになって転げ回ったり、というような遊び方は母親からはまず教わることもできませんし、許してくれることも少ないと思われます。そうした遊びを子どもに教えてあげるのです。また、運動が好きであるならば子どもと一緒に汗をかいてみたり、車が好きでよく知っているなら子どもと一緒に玩具の車で遊んでみたり、やり方はいろいろと考えられます。

 

このように、父親は母親にはできない分野をカバーするようにするといいわけですが、仮に母親の手が足りなくなり、たいへんになってきたらそのフォローにしっかり回れるように、それなりに技術を身につけておく必要はあるでしょう。父親はポジションを問わず、言わばオールラウンダーとして活躍できるようにしておくと言うことです。

 

オールラウンダーとしての立ち位置を取ることは、実際にやってみると分かりますがかなり大変です。時と場合によってさまざまな役割を担わねばならないわけですからそれも当然でしょう。しかし、あまり感情的にならずにものごとに対処することが得意で、さらには子どもと常にいっしょにいるわけではないという父親であれば、そうした役割変化も器用にこなすことができるはずです。

 

父親に求められるのは、母親と同じことをすることではありません。それよりも、母親では気がつかないところに手を伸ばし、母親が苦手とする分野を受け持つようにするべきです。そうやって、母親とは違った形で接してくれる人物がいることにより、子どもは多様なものの見方を身につけていくことができます。

 

時には母親に叱られてでも……

家庭や育児の場面で父親が担当する役割が増えるにつれ、子どもが育つための環境に奥行きが生まれます。しかしながら、母親が苦手とするような分野を担うようになればなるほど、わんぱくな遊びやイタズラなど、母親が怒り出してしまうような分野に足を踏み入れがちになるものです。

 

外で思い切り転げ回ってドロドロになって帰ってきたところ、「よけいな仕事を増やさないで!」と怒られてしまったり、散歩中にお菓子屋さんの前を通りがかったのでおやつを買ってあげたところ「悪いことを覚えるからやめて!」と言われてしまったり……。子どものためを思ってやったつもりが、母親にとっては悩みの種になってしまった、などということも起きてくるかと思います。

 

父親は子どもにとっていいと思ってしたことであっても、母親もそれを同じように感じてくれるとは限りません。母親の苦手な分野を受け持ち、子育てに多様性をもたらそうとすれば、むしろそうではないことのほうが多くなるでしょう。父親としては、常に子どものことと母親の気持ちを考えて行動せねばならず、それは結構大変に感じられることと思います。

 

しかし、だからと言って母親の言いなりに終始していては意味がありません。母親は違う意見を持っているかもしれませんが、時には母親がいきり立ったとしてもいろんなことを子どもに教えるというのもやはり育児の上では大事になってくるのです。それで母親に叱られてしまったら、素直に謝るふりをしておきましょう。その上で、「お父さんもお母さんに叱られちゃったな」といった具合に子どもを楽しませるぐらいのしたたかさを父親には見せて欲しいところです。

 

夫婦の育児観は無理に統一しなくてもよい

少し前の専門家の中には、母親の言うことと父親の言うことに齟齬が生じると子どもは混乱してしまうので、子育てをするに際しては両親の価値観を統一しておくことが肝要だ、というような意見を持った方もいたようです。今の子どもたちの祖父母にあたる世代には未だにそうした価値観を持った人が多いかもしれません。

 

もし子どもを親が考えるとおりに育て上げたいというのであれば、確かに両親の価値観を1つにしておいたほうがやりやすくなります。子どもはそのたった1つの価値観以外に触れることがなくなるためです。

 

しかしながら、それは見方を変えれば相当独裁的な子育てではないでしょうか。言葉をどう飾っても、子どもという一個の個人を親の定めた考え方に無理矢理従わせていることに変わりはないからです。子どものためにも、そうした子育てはあまり推奨できたものではありません。

 

またそうした時代においては、育児は母親が担当し、父親は口出ししないというような社会的通念がまだ色濃く残っていました。そういう時代であれば、育児に関しては母親の考え方が主軸となり、父親はそれを軸にして意見を統一することも比較的容易くできたのではないかと思われます。

 

しかし現在は時代も考え方も変わり、父親も育児に積極的に参画するべしという考え方が主流になってきています。また、自分から育児に興味を示す男性も増えてきました。こうなってくると、父親は父親で自分なりの育児観を持つようになり、そのために母親との間で価値観の衝突が起きやすくなっています。

 

しかしながら、夫婦であっても結婚前は他人同士。そうした個人が全く同じ価値観を共有するというのは無理とは言わないまでも相当難しいことかと思います。そうした事情が背景にあるためか、最近では育児についても両親の価値観にズレがあっても問題ない、という考え方の方が主流になってきているのです。

 

母親の価値観と父親の価値観の間にズレがあることで、子どもは多様性のある考え方を育む土壌を得ることができます。そうしたズレの間に立つことで、子どもは子どもながらに矛盾に直面したり、悩んだりし、ものごとについて自分なりに考える力、主体性、自らの価値観といったものを培い、それが個性という形で花開くことになります。つまり、母親の価値観と父親の価値観の間にズレがあったほうが、子どもは奥行きのある考え方ができるようになり、ものごとを広い視点で捉えることができるようになるのです。

 

こういった事情から、育児について両親の価値観を1つにすることは必ずしも必要ないといえるかと思います。むしろそうした環境で行う育児の方が、子どもを魅力的な人物にしていくことでしょう。多少混沌とした育児環境というのは、人間としての幅広さを子どもに与えてくれることになるからです。そしてそれは、学校や学習塾などでは決して培うことのできない宝物となってくれることでしょう。

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