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子どもの困った行動をズバリ読み解く!

子どもの喧嘩

子どもは親の思い通りには動きません。それどころか「なんでこんなことするの!?」と思うようなことをたくさんやってくれるものです。そんな子どもの行動に困っている親御さんたちは多いことでしょう。でも、子どもの困った行動には、ちゃんと意味があるものなのです。その意味を知れば、きっと新たな目で子どもに対応することができるはずですよ。

 

我が子が「いい子」と言われ続けているときには注意が必要

大人が困るようなことはしない、こうしてくれたらいいのにと思う行動をとる。そんな子は必ず「いい子ね」とほめられるでしょう。でもそんないわゆる「いい子」というのは、実は注意が必要な存在だと、心理学者や教育学者は言います。

 

大人からほめられる「いい子」は、大人が良しとする行動ばかりをとり、子どもならではの様子が見られません。つまり、自分というものを持たないのです。

 

厳しすぎるしつけを受けた子どもは、次第に自分の気持ちを伝えようとしなくなり、こうしたら大人は喜ぶだろう、よいと言ってくれるだろうということを基準に動くようになってしまいます。気持ちの面で自分らしさというものを完全に取り去ってしまうのですね。心理学の世界ではこのことを抑圧された状態と考えます。

 

そのような子どもは、自分の気持ちを大切にして過ごすことや、屈強に生きていくことができません。どこか自分の人生ではない道を歩んでいる感じになってしまうのです。

 

幼いころに「いい子ね」とほめられ続けてきた子は、中学生ころから始まる第2次反抗期に、激しく親に反抗するようになったり、非行に走ったり、不登校になったりする傾向にあるそうです。

 

子どもは、それまでは親の基準に従うことが多かったことでしょうが、この時期になると誰でも自分の基準で動こうとして、がむしゃらにあがくようになります。その時の反抗が非常に激しい子どもは、幼い時に自分というものを押さえこんできた経験をたくさんしてきたというケースが多いのです。

 

地下のプレート同士が引き込まれたり押さえつけたりし続けるうちに、大きな反動によって地震が発生するのと、とても似ていますね。子どもが「いい子だ」とほめられることは、実は手放しで喜べることではないのです。

 

「そう言えばうちの子は『いい子だね』とほめられることが多い気がする…」と思ったあなた、もしかしたらお子さんは、自分を押さえこんでいるのかもしれません。大人が扱いやすいような子どもにしつけようとしていませんか?大人に認められるような子どもに育てようとしていませんか?親の思うままに子どもを操ろうとしていませんか?

 

子育ては、親が思うような人間に子どもを育てあげることではありません。子ども自身が自分の頭で思考し、決定し、それに従って行動できるようにするのが、子育てなのです。親の価値観が子どもの中に入り込み過ぎると、子どもは自分の力で自分の人生を歩んでいくことができなくなってしまいます。

 

「いい子ね」という褒め言葉は、「大人から見て都合がいい子ね」という意味である場合が多々あるのです。大人から見た「いい子」に育てようとせず、その子らしさを見つけ、それを大事に育ててあげましょう。

 

幼い子どもに習い事を始めさせる前に知っておいてほしいこと

昔は習い事といえば、小学生くらいから始まって、そろばんやピアノ、習字くらいのものでした。でも今はだいぶ変わりましたね。0歳から始められる習い事、親子一緒に習うことができる教室、幼児の秘められた力を引き出すための教室など、様々なものがあります。小さい頃、中には幼稚園にも入っていない頃から何かの教室に通わせる人もいますね。

 

このような状況ですから、「周りの子どもたちを見ていると、何か習っている子どもがほとんど…。特に小学校受験をさせたいわけではないけれど、やっぱりうちの子も習い事をさせるべき?」と悩んでしまっても当然です。

 

子どもの習い事については、知っておいてほしいことがいくつかあります。まず、親子でともに習う教室についてです。普段は親子二人の世界での育児になりがちな現代ですが、このような教室に通えば、社会に交わることができ、親子共々友達が増えることでしょう。そういった意味では、このようなタイプの教室は大きなメリットがあると言えます。

 

次に、幼い子どもに習い事が必要なのかどうかについてです。その前に、子どもの中に最初からある、素晴らしい仕組みについて、お話しておきましょう。

 

実は子どもには生まれた時からすでに、自分の脳を発達させるための仕組みができており、それに従って子どもはいろいろな行動をとっています。その行動は大人の目から見れば奇異に感じるようなものであることもあります。でもそれは脳を発達させるために行っている行動なのです。

 

子どもの中に組み込まれた、脳を発達させるための仕組みは、子どもにいろいろなことをさせます。一見意味のないような行動だったり、ふざけているだけに思えたりする行動でも、それは脳を発達させるために必要な行動なのです。水たまりに入りびちゃびちゃ足踏みするのも、危ないところに登ってしまうのも、脳内の発達させたい部分を刺激するためです。

 

「なんでこんなことするのかしら」「こんなことしないでほしいわ」と親が思うようなことでも、子どもの脳を発達させるためにしていることかもしれないのです。だから、よほど危ない時以外は、そのような行動も少し見守ってあげてはいかがでしょうか。成長とともにだんだんしなくなってきます。

 

さて、幼いころからの習い事が必要かどうかということに、話を戻しましょう。

 

発達行動学的には、赤ちゃんは自分がやらなければならないことを知っていて、それをするので精いっぱいだと言います。ですから、周りの大人がさせようとすることにまで手が回らないのだと。大人の方から何かさせようとするより、赤ちゃんがやりたがっていることに寄り添ってあげるべきだということです。

 

生まれたばかりの赤ちゃんの中にもちゃんと、自分を発達させるための仕組みが備わっています。それに従って子どもは様々な行動を起こします。親がすべきことは、そんな行動にきちんとつき合うことです。そうすることで、赤ちゃんの脳はちゃんと発達していきます。

 

親がそのような態度でいるならば、それ以外の習い事をさせる必要はありません。子どもが自分から遊びに夢中になっている時、その遊びは脳を発達させています。その遊びさえあれば、子どもの脳はちゃんと成長していけるのです。

 

コミュニケーション能力を育てるには喧嘩も必要

あなたは自分のお子さんが友達と喧嘩をしているのを見た時に、「喧嘩しちゃダメでしょ!」と叱っていませんか?きっと多くの親御さんたちが、このように対応していることと思います。それは喧嘩をすることは悪いことという考え方が主流だからでしょう。

 

喧嘩というのは、自分の気持ちを相手に伝えたい気持ちから始まるものです。それ自体は問題ないのですが、やっているうちに感情的になってしまって、どうしても相手をへこましたいという気持ちが生じ、喧嘩したまま別れてしまうことになってしまうことが多いのです。これは上手な喧嘩とは言えませんね。

 

腕っぷしで相手をねじ伏せるのが上手な喧嘩ではありません。喧嘩をしても最後にはお互いを理解できるようになり、きちんと仲直りもできて初めて、上手な喧嘩だったと言えるのです。少々手荒に感じるかもしれませんが、コミュニケーションの技法を身につけるためには、喧嘩も効果的な方法なのです。幼いころに喧嘩の経験があることは、よいことなのです。

 

一言で喧嘩と言っても、子どもが発達していくに従ってその形態は変わっていくことが多いようです。始めのうちは相手をぶったり蹴ったりという直接的な喧嘩です。少し成長すると喧嘩は、言葉で相手を攻撃するように変わっていきます。さらに成長が進むと、相手に負けるものかと張り合うような態度で喧嘩するようになります。

 

そして最後には、口論という、理論による喧嘩へと変わっていくのです。口論というのは生産的なものです。これができれば、考え方が違う相手と自分が高まりあうための技術を、習得できるようになってきます。これこそが、国際的な社会には必要不可欠な、「違いを認め合い、それぞれの良いところをうまく活用し協同していく力」へと進化していくのです。

 

喧嘩の形態がどんどん発展していくと、これからの国際的な社会で通用する力を習得することができるようになるというわけです。ここまで説明すれば、喧嘩がどれだけ大切なものなのかを理解していただけたことでしょう。

 

近頃の若い人たちは、コミュニケーション能力に乏しいと、よく言われますね。もしかしたら彼らは、幼い時に喧嘩をあまりしてこなかったのかもしれません。喧嘩をうまく進化していけなかったのかもしれません。

 

コミュニケーション能力を我が子に身につけさせたいと思ったら、喧嘩をしないようにと育てるのではなく、よい喧嘩をたくさんさせ、また、喧嘩がきちんと進化していけるようにフォローしていくとよいでしょう。

 

我が子が友達に泣かされてきたとき、親はこう対応しよう!

「○○くんにやられたー」と自分の子が泣いて帰ってきたら、たいていの親はわが子をかわいそうに思い、相手を憎々しく思ってしまうことでしょう。でもここで、相手の子どもを悪者のように考えるのは、ちょっと待ってください。

 

先ず何よりも先に、子どもの悔しい思いに共感してあげてください。お子さんが自分の意見を相手に伝える努力をしたのであれば、それをほめてあげてください。そうすることで、少しずつ子どもの気持ちも落ち着いてくるでしょう。

 

そのような状態になったら、次の段階として、相手の気持ちに気づかせるような言葉かけをしましょう。「どうして○○くんはこんなことをしたのかな、なにか理由があるんじゃないかな」などというように。そうすることで、子どもは自分以外の人の気持ちを考えることを学んでいくでしょう。

 

「やられっぱなしになってないで、やり返せばいいでしょ!」という言葉かけはおすすめできません。泣いて帰ってきた子どもは、やり返しても負かされたとか、やり返すことができないほど強い相手だったとかいう状況だったはずです。それなのに家では親に「やり返さなきゃだめだ」と責められては、完全に行き場を失ってしまいます。

 

相手に対してやり返さず耐えていたのだとしたら、暴力に訴えなかったことを褒めてあげましょう。そうすることで、力で対抗しないことは心が強いことなのだということを、子どもは学ぶはずです。

 

「泣かされた」という状況は悪いイメージしかないかもしれませんが、見方を変えてみると、気づきのチャンスがたくさん隠れているのです。親はそれを上手に見つけて、子どもに教えてあげるべきです。

 

誰かに泣かされたという体験は、子どもに多くの事を学習させるものです。そういう意味では、相手は大切なことに気づかせてくれた人になり、100%悪者ではなくなってきます。

 

だからこそ、子どもは泣かせたり泣かされたりしつつも、時間が経てばまたすぐに仲良く遊ぶようになってくることが多いのです。もちろんその後も喧嘩は繰り返すでしょう。昨日泣かされた子が、明日は泣かせる側になっているかもしれません。

 

子どもは喧嘩をするたびに、他人の心を推し量ることや、暴力に訴えずに我慢することを学び、人との良いかかわり方を会得していくのです。

 

頻繁に起こるきょうだい喧嘩…親は立ち入らないのがベスト!

きょうだいがいれば、ほとんど確実に喧嘩は起こります。しかも喧嘩をしない日はないというきょうだいも多いでしょう。年齢が離れているとか、性別が違うとかいうことは喧嘩の有無に関係ありません。きょうだいが顔を合わせれば、日課のように喧嘩が勃発するのところも多いでしょう。

 

喧嘩のきっかけは、親から見ればくだらないことばかりに思えます。ですがこの考え方はちょっと違っています。彼らにとって喧嘩のきっかけなどどうでもいいのです。喧嘩そのものが必要だからこそ、何かにつけ因縁をつけて喧嘩をしていると考えられます。

 

きょうだい喧嘩は、争いごとに関するいろいろな技法を学ぶための練習と考えられます。どうやって戦い自分の意見を表すか、どうやって妥協点を探り相手を許せばよいか、それらを練習するために喧嘩をするのです。そしてその相手としては、一番自分の近くにおり、かつ、信頼のおける存在である、自分のきょうだいが最も適しているわけです。

 

それに気づかず親がきょうだい喧嘩に口出しすれば、三者の争いに変わってしまいます。親が自分側についてくれれば形勢は有利になりますから、子どもは親を取り合うようになります。きょうだい喧嘩にはよくあるシーンですよね。

 

でも、子どもから「僕じゃなくて、お兄ちゃんの方が悪いんだよ」なんて言われても、親は判断のしようがありません。もともと喧嘩の原因は親にとってとるに足らないような問題なのですから。親はどちら側にもつけませんから、喧嘩は終わりません。

 

堪忍袋の緒が切れて、「いい加減にやめないと、どちらもおやつ抜きですよ!」と脅迫めいたことを言ってしまうこともよくあるでしょう。でもそんな荒っぽい手段をとってしまっては、争いごとの練習をするという、本来の喧嘩の目的が果たせません。それに、喧嘩をした両者だけでなく、親までもがもやもやした気持ちのまま、喧嘩が終わってしまいます。

 

親は、お奉行様のように喧嘩を裁くようなことはしない方がよいのです。そうしないと、いつまでたっても争いごとの正しいやり方やおさめ方を身につけることができません。こう考えると、親はきょうだい喧嘩に立ち入らないのが良いと考えられます。それが結果的に、誰にとっても良いことになるのです。

 

それでもどうしてもきょうだい喧嘩を減らしたいと思うのであれば、喧嘩をしていない時に、それぞれ別の機会をとらえて、その子の良いところを思い切りほめてあげることをおすすめします。自分は親に認められたと実感できれば、むやみに他人と争いを起こそうという気にはならなくなるものだからです。

 

争いごとを解決するのに必要な能力を身につけるための、素晴らしい練習の場となりうる、きょうだい喧嘩。子どもたちにはぜひ習得してもらいたい能力ですから、親は極力、その喧嘩に立ち入らないようにしてはいかがでしょうか。

 

どんなに小さな子どもでも、他人とのかかわり方を自力で学ぶことができる!

大人になっても人間関係には悩まされるものです。その時のつらさは親であるあなたも良く知っていることでしょう。幼稚園や保育園に通い始めると、子どもたちもやはり、大人のように人間関係で悩む局面が出てきます。親はつらさを知っているだけに、こんなに小さいのにと、心が締め付けられることでしょう。

 

ただ、幼稚園や保育園に通う子どもなら誰でも、お友達とうまくいかない場面に遭遇するものなので、我が子だけが?と心配する必要はありません。子どもなら、最初から最後までずっと誰とも関係が悪くならなかったなんていうことは、ありえないのです。

 

それに、どんなに他人とのかかわり方が上手な子どもであったとしても、人間関係は相手があってこその事ですから、相手がいつも自分と同じようにかかわり方のうまい子どもであるとは限らないわけで、トラブルというのは起こり得るのです。

 

会社に勤める大人であっても、そこで働く人たちすべてと、完全に仲良しであるわけではないですよね。この人とはちょっと合わないかも…と思う人がいても、何とか職場での関わり合いをやっていくという感じでしょう。

 

幼稚園や保育園というのは、子どもが他人とうまくいかない時にどうしたらよいかということを学ぶ場でもあります。だから、我が子が人間関係でうまくいかない時があっても、親は心配しすぎる必要はありません。

 

親がすべきことは、お友達とうまくやれなかったときの子どもの気持ちをしっかり聞いて、受け止めてあげることです。それ以上に、「こうしたら?ああしたら?」と、大人の目からのやり方を教える必要はありません。「悔しかったね、悲しかったね」と気持ちを受け止めてあげれば、どうすればよいかということを、子どもが自分で気付けます。

 

このようにして自力で習得した、人とのかかわり方は、その子がこの先生きていく上での大切な資産になるはずですよ。

 

子どもは壊し屋さん!?ここにもちゃんと意味があります

1歳ころの子どもを持つ親御さんの悩みには、「子どもが何でも壊してしまう…」というものがあるでしょう。この頃の子どもというのは、手に何かを持てば投げたり落としたりして、壊してしまうことが多いのです。どうしてこんなに壊し屋さんなの!?と、大切なものを壊されてしまった大人は、子どもの意図が分からず困惑することでしょう。

 

でも、子どもにとって物を壊すというのには、とても大切な意味があるのです。「これを投げたらどうなるのかな、落としたらどうなるのかな」「壊れるものなのかな、壊れないものなのかな」ということを調べているのです。

 

この調べ活動は、成長とともに複雑になっていきます。壊れるのかなという疑問から、中はどうなっているのかなという好奇心へと発展していくのです。小学校に通うような年齢になれば、おもちゃや時計の中がどのような構造になっているのかを知りたくて、分解しようとするでしょう。

 

わからないことを調べたいというのは、知的好奇心です。知的好奇心は本能が司っていることであり、大切にしたいものです。それに、知的好奇心が旺盛な子どもほど、自ら勉強に取り組むようになるのです。小さな子どもが物を壊す実験も、のちに知的好奇心へとつながっていくものなのですから、大事にすべきなのです。

 

ですから、子どもが小さい時に、ものを壊したり分解したりするのを禁止しておきながら、成長した後に「もっと進んで勉強に励んでくれないものかしら」と悩むのは、ちぐはぐなことになりますよね。

 

とはいえ、何でもかんでも壊されてしまっては困ります。だから、壊されたら困るものについては、子どもが取れないようなところに置いておいたり、大事にしまっておいたりしましょう。そのように設置できないものは、これは大切だから触ってはいけないと、しっかりと子どもに教えるのです。

 

どうしても壊されたくないもの以外は、子どもが壊してしまっても大目に見てあげてください。そうすることで、子どもの知的好奇心はどんどん発達していくでしょう。発明というのは、誰かの好奇心や探求心から生まれています。あなたの子どもは、将来大きな発明をしてくれるかもしれませんよ。

 

親から見たら単に破壊しているだけに見えても、それは好奇心の芽生えを表しています。むやみに禁止せず可能な限りやらせてあげましょう。それが将来の勉強への意欲や、科学への興味につながっていくというわけです。

 

子どもの低俗な言葉遣いに対しては冷静な反応を

子どもが初めて家以外の社会に出るのは、保育園や幼稚園に通い始めた時でしょう。そうしてしばらくすると、だんだんと悪い言葉を覚えて使い始めることがあります。誰かが幼稚園でその言葉を発していたから覚えたのですね。そのお友達はおそらく、自分より上のきょうだいが言うのを聞いて覚えたのでしょう。

 

大人が聞くとぎょっとするような、低俗な言葉を我が子の口から聞けば、誰でも抵抗感を覚えます。生真面目な方ならなおさらのこと。「こんな言葉、二度と言わないようにさせなければ」と必死になるかもしれません。でも実は、そんなに血相を変えなくてもいいのです。子どもがこのような言葉を言うのは、その言葉が持つ意味や力を探っているからです

 

幼い子どもが低俗な言葉を吐いたからと言って、悪気がある訳では決してありません。なぜならその言葉の意味を知らずに使っている場合が多いからです。意味を知らないのですから、誰かを嫌な気持ちにさせようという意図は、もちろんないわけです。友達が使っているから自分も言ってみただけということでしょう。

 

その言葉の持つ意味や力を知るには、大人だったら辞書を引いてみるかもしれませんが、幼い子どもには無理なことです。だから、その言葉を実際に使ってみるのです。そうして相手の反応を見て、その言葉の意味だけでなく、その言葉には人を不快にさせる力があるとか、悲しい気持ちにさせる力があるとかいうことも学んでいくのです

 

ここまで考えてみると、子どもの低俗な言葉について大人はどう反応したらよいかが分かります。つまり、自分が感じた気持ちを素直に返してやるのです。「そんなこと言われたら気分が悪いわ」とか「悲しい気持ちになっちゃった」とか。そうすることで子どもはその言葉の持つ意味や力を知り、言ってはいけないなと判断できれば、もう言わなくなります。

 

もう少し成長して、「うざい」とか「くそばばあ」などと暴言を吐くようになっても、同じ対応をすればよいでしょう。低俗な言葉についても暴言についても、やめさせなければと必死になることはありません。落ち着いて冷静に、その言葉を使うと嫌な気持ちになることや、簡単に使うべきものではないということを、伝えてあげればよいのです。

 

なぜ子どもはアリを平気で殺すのか

子どもが無邪気な顔をして、地面を動くアリを踏みつぶす様子は、よく見る光景です。親をはじめとする大人はそんな姿を見て、なんてひどいことを…と心を痛めることでしょう。なぜ、子どもは平気な顔をしてアリを殺すことができるのでしょう。

 

自分の子どもの頃の事を振り返ってみてください。同じようにアリを踏みつぶして殺したことを思い出せる方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんな子どもだった人でも、ある日突然、その行為の残酷さに気づいてやめるようになったはずです。思い出せなくても、ほとんどすべての人が、このような経験を持っているのです。

 

子どもが平気でアリを殺していても、それは残酷な心を持っているからではありません。今はアリを殺すことの意味が分からないだけです。ただ、成長するに伴ってどこかの時点で、「自分がアリだったら、さぞかし痛いだろう、苦しいだろう」「どんなに小さくても命は命なのだ」「こんなこと、もうしてはいけない」と気づくはずなのです。

 

そしてアリを踏みつぶすことの本当の意味を知った子どもは、アリ以外の他の生き物についても、むやみに殺したり意地悪したりしなくなります。それが発展すると、自分より弱い人であっても、いじめたりせず守ろうとする気持ちが生まれてくるのです。

 

ですから、幼い子どもがアリを平気で殺すというその行為は、いつか生命の尊さに気づくための最初の段階と言えるのです。切ないことですが、多くのアリが、子どもたちの気づきのために命を奪われることとなるでしょう。

 

もちろん、アリだけではありません。トンボやカエル、その他身近な生物たちは、子どもが生命の尊さを知るために犠牲を払うことになるのです。体を大きくするには生き物の命が必要です。それと同じく、心を大きく育てるにも生き物の命が不可欠だということになります。

 

考えてみれば人間の身勝手かもしれません。だからと言ってアリなどを殺すことを最初からしないように止めてしまったら、子どもが自分で命の尊さを学ぶ機会を奪うことにもなってしまうのです。

 

子どもがアリを踏みつけていたら、血相を変えてやめさせるのではなく、生き物を殺すことの意味や、生命の尊さについて考えさせるような言葉かけをしていきたいものです。子どもを叱りつけるよりも、命を粗末にしてはいけないことや、弱いものは守ってあげなければいけないことを、子どもと真面目に話し合ってみてください。

 

子どものお小遣いの使い道に、親は口出ししなくてよし!?

お子さんにお小遣いをあげていますか?小学生ともなると、お小遣いをもらって自分で買い物をする子どもも増えてきますよね。でも、その使い道を知って、眉をひそめる親御さんたちも多いようです。「そんなくだらないものでお金を使わないの!」とダメ出しをする方もいることでしょう。

 

でも、そもそもお小遣いというのは、限られたお金の中からやりくりをして、上手に物を買う練習という、大きな意味を持っているのです。大人から見たらくだらないものを買ってしまっても、その後「こんなもの買わなければよかった」「あの時お金を使っていなければ、今これを買えたのに…」という風に悔んだり反省したりできれば、それが勉強になります。

 

とはいえ、子どもがお金を使う際には、どうしてもこれは一言言わなければ、と思う場面も時には出てきます。そんな時には「これを買うとお金がこれだけなくなるよ。そうすると、後でもっといいものに出会えた時、お金が足りなくなってしまうかもしれないよ」という風に、お金の上手な使い方に関するアドバイスをあげるのもいいですね。

 

そのアドバイスを聞いてもなお、子ども自身で買うことに決めたのであれば、もう何も言うことはありません。もちろん、子どもが買おうとしているものが危ないものだったり、子どもが絶対に買うべきではないものだったりした時には、毅然とした態度でやめさせましょう。

 

基本的には、子どものお小遣いの使い道は子どもに決めさせるべきです。親が決めてしまったら、子どもは計画的なお金の使い方を身につけることができないまま大きくなってしまいます。子どもが上手にお金を使える大人になるように、お小遣いの使い道を考えるところから練習させましょう。

 

子どもが同じ絵本ばかり読んでいるのは良いことです

卒園までの数年間で、2000冊もの絵本を読ませるという保育園があるのをご存知ですか?メディアにも取り上げられたので、聞いたことがあるという方も多いことでしょう。すごい読書量ですね。

 

「それに比べてうちの子は…。同じ本ばかり何度も読んで、ちっとも読書量が増えないし、幅も広がらないのよね」という悩みは、実は多くの方が感じていらっしゃいます。同じ本を何度でも飽きることなく繰り返して読み、同じ場面で爆笑していたかと思えば、今度は違う場面の面白さにも気づいて笑う…。子どもにはよくあることなのです。

 

でも、読書量が増えない、幅が広がらないという心配は無用です。一つの絵本であっても、読む人が違えばいく通りもの読み取り方がありますよね。それと同じように、同じ絵本をくりかえし読むことで様々な発見をしますし、感じ取り方もまた、読むたびに少しずつ異なってくるのです。

 

こうすることで、子どもの感覚・感じ方というものがどんどん豊かになっていくのです。これこそが、幼少期における絵本との付き合い方だと言ってもいいでしょう。われわれ大人が、ビジネス書などを次から次へと大量に読んでいくのは、仕事上必要な情報をたくさん得るためです。幼少期の読書と大人の読書とでは、目指すものが違うのです。

 

同じ絵本を何度でも読み返す時期は、いつまでも続くわけではありません。成長とともにいろんなジャンルの本に興味を示し、次から次へと違う本を読むようにもなってくるはずです。

 

同じ絵本ばかりを読んでいる今は、子どもの感覚や感じ方が育っている時期なのです。それをどうか喜んであげてください。子どもの気が済むまで何度でも読ませてあげてください。焦る必要は全くありませんよ。

 

子どもに危ないものを全く使わせないのはナンセンス!

子どもは大人が使う道具に興味をもちます。はさみなどは正しい使い方を身につけないと非常に危険なものですが、まだ手先が十分に発達していない頃から、子どもは自分ではさみを持って何かを切りたがります。こちらとしてはハラハラしてしまうのですが、これもまた必要な経験です。

 

もう少し成長して、小学校に通う子どもたちくらいになると、はさみや包丁などの刃物、それからコンロやライターなどの火、塀や木の上など高いところなどに対して危険を感じ、必要以上に近寄らないようにする子と、あまり危険を感じない子とに分かれます。

 

危険を察知するタイプの子は、これらのものを使用する時も、「もっとやると危険かもしれない」という境界線を何とはなしに感じることができ、本当に危険な状態になるまでには至りません。一方、あまり危険を感じないタイプの子は、その境界線を感じることができず、本当に危ないところにまで行ってしまいます。この違いはどこから来るのでしょうか。

 

それは、もっと幼いころに、危険なものに触れる経験をしてきたかどうかという点にありそうです。危険なものを使用したり利用したりした経験がたくさんある子どもは、感覚的に「これ以上は危険」という境界線が分かるようになります

 

それに対して、「危ないから」という理由で刃物や火、高いところなどから引き離され、安全な道ばかりを歩まされてきた子どもは、いざ危険なものを使用したり利用したりする場面になると、どこまでが安全でどこからが危険かということが認知できない状態になってしまうと思われます。

 

「ここから先は危険」ということを察知できる感覚は、もっと成長してからもとても大事になってきます。中学生や高校生にもなれば、携帯電話やスマートフォンを持つようになるでしょう。自分でサイトを探り、利用することもあるでしょう。そんな時、「このサイトはきっと利用しない方がいいな」ということにも気づけるようになるのです。

 

さらに大人になって、詐欺めいた話や怪しい団体からの誘いが来たとしても、危険を察知するセンサーが働くようになるのです。成長してから危険な道に入らずにいるには、幼いころから危険なものと上手に付き合い、どうやったらそれらを安全に使うことができるか、どこまでやったら危険なのかをつかむ感覚を身につけてきたかどうかにかかっているのです。

 

もちろん、大けがになるような事態は避けなければなりません。そこをきちんと踏まえながら、少しくらいの失敗は覚悟して、危険なものにも触れさせてみるのも必要です。危険をきちんと察知する感覚を身につけることは、我が子が自分の人生をまっすぐにたくましく歩んでいくために、必要なことなのです。

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