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これで納得!勉強は私たちにとって必要なものなのです

勉強に納得

子どもはおそらく誰でも、勉強しなければならない理由を知りたいと思ったことがあるでしょう。どうして勉強しなきゃいけないのだろう、どうして学校に行かなければいけないのだろう…。そしてその疑問を大人にぶつけてくることもあります。その時、あなたはすぐに答えられますか?多くの大人が答えに窮してしまうはず。

 

でも、勉強しなければならない理由は確かにあります。しかも、たくさんの理由があるのです。きっとその理由を知れば、子どもは納得して勉強に取り組むことができますし、親なら子どもに自信を持ってその理由を教えてあげることができるでしょう。

 

勉強は生きるために、そして充実した人生を送るために必要なもの

もしも勉強しなかったら、私たちはこの世の中で生きていくことができません。この世で生きていくには何らかの仕事をして報酬を得なければなりません。子どもはまだ親に食べさせてもらっていますが、いずれは大人になり、働かなくてはならなくなります。そして何かの職業につくには、勉強は必要不可欠なのです。

 

私たちが今いる社会では、知識がなければ何もできません。もちろん働くことさえできません。就職するにはある程度の知識や技術を身につけなければならないのです。計算する力、英語を話す力、コンピューターを操る力、考えをまとめ、発表する力…。これらの力を標準として持っていなければ、社会人として生きていけないわけです。

 

何かの職種に就いたとしても、勉強は終わりません。あらゆることが猛スピードで更新されていく時代ですから、それに合わせて自分の力もバージョンアップしていかなければならず、それにはやはり勉強が必要なのです。だから勉強は、この世の中で生きていくためにやらなければならないことなのです。

 

さらに勉強は、ただ生きていくためだけに必要なのではありません。より充実した人生を生きるためにも必要になってきます。人間というのは、ただ毎日食べ物にありつければそれでよいというものではありません。他人との良好な関係を築いたり、喜びや幸せを感じたりしながら生きていくものです。

 

外国語を話すことができれば地球上の多くの人と仲良くなれるかというと、そんな単純なものではありません。言葉が通じて、相手と自分との間に何か共通するものを発見できたとき、本当の意味で相手との良い関係を作ることができるのです。

 

この時、自分が様々な知識や経験を持っていればいるほど、相手との共通点を探しやすいと言えますし、よりたくさんの人とわかり合える関係になれます。そういう意味で、学生のうちにいろいろなジャンルの事を学ぶのは、大きな意味のあることなのです。

 

「歌を歌ったり楽器を演奏したりすることなんて嫌いなのに、どうして音楽をやらなきゃいけないの?」「絵が描けなくたって、将来の仕事に関係ないじゃないか」などと考えたことはありませんか?でも子どものうちから様々なジャンルの勉強に触れているからこそ、様々な人と自分との共通点を見つけることができるようになるのです。

 

それに、学校で習わなかったらこの分野に興味をもつことはなかったということもあるはずです。学校の授業は、自分の興味関心、将来の夢に結びつくような出会いの場でもあるのです。

 

仮に、自分が音痴で全く歌は歌えないという人でも、美しい音楽を聴くことは好きだと感じられたら、コンサートやオペラなどを鑑賞するようになるかもしれません。画才は全くなくても、教科書に載っている有名な画家の絵に感銘を受ければ、美術館巡りが趣味になるかもしれません。そうなったら、人生はより充実したものになるでしょう。

 

また、勉強することによって知識の幅が広がれば、それだけ多くの人と共感することができるようになります。他人と共感することができれば、他人から信用されるようになりますし、共に力を合わせて一つの事をやり遂げることもできます。そしてお互いに愛し合える人にも巡り合えます。そんな人生はとても充実したものです。

 

授業を受けたり、本を読んだり、人から教わったりして人は勉強し続けます。それは、この社会で生き抜くためであり、自分自身の人生をより充実したものにするためだと言えるのです。

 

どんな国や社会にも対応できるようにするために勉強をする

今の子どもたちが大人になる頃には、今よりもいっそう、グローバル化が進んだ社会となるでしょう。そうなると、ただ成績が良くて、良い大学を出て、一流企業に勤めているというだけでは、足りなくなってきます。なぜならこれらは、日本の中にいるときにしか大きな意味を持たないからです。

 

これからは、一つの国だけでなく、どの国に行っても役立つような力をつけていかなければならないのです。ユダヤ人の方々や華僑の方々は、自国でしか通じない力ではなく、世界のどの国にも役立つ知恵や学識、技能を身につけてきた人たちです。彼らには見習うべきところがあります。

 

彼らのように、世界中どの社会に出たとしても役立つような力を得るには、専門的な知識・技術を必要とする職業につくことと、深く考える力を身に付けることの2つが必要です。順に詳しく説明しましょう。

 

専門的知識・技術を必要とする職業につくというのは、すなわち、自分の力を目に見える形で示すということになります。医師免許や弁護士免許を取得したり、自分が作ったものが特許を獲得したりと、自分の力や業績を目に見える形にするということです。

 

ですから、子どものうちから自分の得意なことを見つけておくことが大事になってきます。誰しも1つくらいはあると思いますが、より広い世界で通用することを考えると、1つで満足せず、2つ、3つと得意なことを増やしておきたいものです。

 

次に深く考える力を身につけることについてですが、これには練習が不可欠です。様々な分野において、いろいろなことを知り、そのことについて考える練習が必要なのです。数学を例にとって考えてみましょう。数学の分野でいろいろな問題に触れ、思考することで、筋道立てて考える練習ができます。

 

また、その国の古文を勉強することも、考えを深める練習にはもってこいです。日本では、現代語の礎ともいえる古文・漢文を習いますし、ヨーロッパではラテン語を学びます。これらを習っているときは「そんな昔の言語を勉強しても、今現在役に立つものではないではないか」と思うかもしれません。

 

ですが、古の言語を学ぶことで、それらを使っていた時代の哲学に触れることにもなりますから、自分自身のものの見方が広がることは間違いありません。それに、物事の最も大切で肝心な点をおさえる練習もできるのです。

 

ユダヤ人や華僑の人々からは、他にも学ぶべき点があります。それは、信頼がおける人(例えば親族や親しい友達など)同士のつながりを重んじるということです。信頼できる人と結びつくには、まずは自分が信頼されるに足りる人物ではなくてはなりません。

 

どうすれば信頼されるかというと、人の役に立つような知識や技能を持ち、それを惜しみなく周囲の人に分け与えればよいのです。ですからまずは、そのような知識・技能を身につけなければならず、そのためにはやはり、勉強が必要だということにつながるのです。

 

もっとこの世の中を良くするため、世の中の役に立つために勉強は必要不可欠です

いつの時代も、人間たちは今の世の中を良くしたい、世の中の役に立ちたいと思ってきました。この世に生まれてきたからには、そのように生きなければなりません。でも、世の中をよくするには、まずは今現在ある問題は何なのかを、しっかりと見極めなければなりません。そのためにはやはり、勉強するしかないのです。ここにも、勉強する理由がある訳です。

 

では、どうして人間は、世の中を良くしようと考えたり、世の中の役に立ちたいと考えたりしながら生きなければならないのかを、もう少し詳しく見ていきましょう。

 

「なぜ何かの役に立つような生き方をしなければならないの?楽して生きられればそれでいいじゃないか」「自分は別に良いことをしなくても、親は世話をしてくれるし、親が死んだ後は政府が何とかしてくれるだろう」そう考える方も少なくないでしょう。でもそれで本当に良いものでしょうか。

 

「自分は一人で生きている、生きていける」と思っている人もいると思いますが、それは違います。あなたが生まれるには、両親が必要だったはずです。そしてここまで育ってきたのにも、両親をはじめとして、いろいろな人があなたを愛し、お世話をしてくれたからでしょう。両親や家族だけでなく、様々な人からいろいろなことを教わって成長してきたはずです。

 

そこに気付ければ、「自分は誰かのために働かなくたって、楽して生きられればいいのだ」などとは、恥ずかしくて言えなくなるのではないでしょうか。自分の親たちが、子どもが大きくなった時に困らないような世の中にしたいと考えて努力してきたように、自分の次の世代のために良い世の中にしなければならないのです。

 

世の中をよくするために働きたいと思い、その思いが実って誰かの役に立てた時、人は初めて報酬を得ることができるのです。それが、本当の意味でひとり立ちしたということになるのです。

 

とはいえ、報酬をもらえるような仕事だけが、世の中の役に立っているのではありません。奉仕活動も、誰かの役に立つ立派な仕事です。お金という形ではなくても、奉仕活動をすることで、誰かに何かを与えているはずが、自分にも与えられていることになるからです。

 

誰かを助けたり、何かの役に立ったりするのが奉仕活動ですが、活動していくうちに、何かしら自分自身に気づくことがあり、それが自分を成長させるものです。現物としての報酬にこだわったり、自分のものは誰にも渡さないと思ったりしている人は、自分を成長させることができません。

 

報酬をもらえるかもらえないかにこだわらず、ただ人の役に立ちたい、社会の役に立ちたいと思って活動していれば、その行いに賛同する人が集まってきて、金銭的にバックアップしてくれることもあるでしょう。

 

このように、この世に生を受けたからには、人間はだれかの役に立とうとし、良い世の中にしたいと努力すべきなのです。そしてこの世の中の何が問題なのかを知り、どうやって解決したらよいのかを考える力を得るには、勉強が必要だということなのです。

 

子どものうちに勉強しておかなければ、大人になってからの学びはうまくいかない

社会のために働き、給料をもらわなければ、誰だって生きていけません。それだけ聞いて「それなら学校なんて行かず、すぐに働けばよいではないか」と考えるのは早合点です。中卒で社会に出ても、思うような職業にはつけなかったり、簡単な作業にしか携われなかったりするのが現状です。

 

残念ですが、中学校卒業程度の学力では、社会に役立つ知識や技術が少ないし、やる気のない人間だと思われることもあるからです。

 

中には高校へ行かず、すぐに職人さんのもとで修行をする人もいるでしょう。しかしそれは、勉強以上につらく、厳しく、長いものであることを分かったうえで臨まなければ、決して続かないことでしょう。強い意志を持ってその選択肢を選んだのではなく、ただ勉強をしたくないからという理由であるなら、それは甘い考えだと言わざるを得ません。

 

ですから、高校へ行かず働きに出たものの、その厳しさに打ちのめされ、もう一度学校に入りなおし、勉強する人さえいるのです。

 

勉強が嫌だから、働きに出ると言っても、社会に出たって勉強は必要なのです。技術は一日ごとに進歩していますし、情報は常に更新され続けているのです。それらを吸収するには、やはり勉強しなければなりません。

 

そのように、大人になってからも勉強は必要なのですが、大人の中にも、勉強を続けてどんどん自分を進化させることができる人と、勉強はせずに現状に甘んじている人とがいます。その違いの一つは、子どもの頃の勉強の仕方にあります。

 

子どものうちにきちんと勉強していると、勉強する力の基礎がしっかりと固まります。建物でもそうですが、基礎がしっかりとできていれば、その上に知識をどんどん積み重ねて、成長し続けることができるのです。

 

子どものうちの勉強は、基礎的な知識を身につけるためだけにするのではありません。勉強することを癖付けるためにも必要なのです。子どもの頃に、勉強する癖がついていれば、大人になっても、新しいことを学ぼうとしたり、日々成長しようと頑張ったりする人になれるのです。

 

ひとたび物事が習慣づくと、何の抵抗感もなくできるようになるものですが、習慣づくまでは少々苦労が必要です。勉強も然りです。「理解できない」「面白くない」と思う経験をある程度積まなければ、勉強の習慣がつかないのです。ですから、勉強を習慣づけるまでは、苦痛に感じることがあったとしても、あきらめずに続けることが大切です。

 

子どものころから勉強をきちんとやっておけば、大人になってから勉強するための基礎が固まりますし、勉強する習慣もつきます。この2つができていないと、大人になったときに「もっとステップアップするために頑張ろう」という気持ちになれなかったり、やる気はあっても基礎がなっていないから、ちっとも実にならなかったりするのです。

 

そうなってしまったら、新しいことを学んで日々自分を成長させることから逃げてしまい、なし得ることのない人生を送ることになるでしょう。そしてその原因を自分以外の何かに求めながら、人生が終わるのです。なんとも物悲しい人生ですね。ですから、辛い思いをしながらも勉強し続けることが、人生において必要不可欠なのです。

 

大人になっても成長し続ける人と、努力をせずに成長が止まる人との、2種類がいると言いました。だれもがいつまでも成長し続けたいと思うはずです。そんな大人になるためには、子どもの時に勉強しておくしかないのです。

 

勉強なんてとバカにするのは、勉強ができるようになってから

「学校の勉強なんてつまらないことだ、意味のない、くだらないことだ」と批判するからには、勉強がちゃんとできなければなりません。なぜなら、そんな大きな口を叩いておいて、テストの点数が悪かったら、「勉強ができないから、悔し紛れに言っているのだ」と思われてしまうからです。負け犬の遠吠え、というわけですね。

 

学校で習うことについて正々堂々と批判をしたかったら、学校での勉強をきちんとクリアしなければならないのです。「テストなんてくだらない」と言って受けないのは、「悪い点数をとるのが怖いからなんじゃないの?」と思われても仕方ないのです。

 

勉強ばかりにいえることではありません。どんなにユニークな政策を掲げている政治家でも、政治の基礎をしっかりと学んでいる人でなければ、信頼を得ることはできないでしょう。

 

どんなに個性的な絵を描く画家であっても、最初は絵の描き方の基礎を散々学んでいるのです。その知識を押さえなければ、自分からあふれ出る想像の世界をぴったりと表すような表現方法が見つからないはずなのです。

 

もちろん、何の基礎知識もない突飛な発想が、偶然成功を生み出すこともあるでしょう。でもそれがずっと続くとは思えませんから、それでプロの道を目指すのは無茶なことだと言えるのです。

 

大きな口を叩きたいなら、大きなことをなし得たいなら、まずは目の前にある小さなことをしっかりやり遂げなければいけないというわけです。だから、勉強なんてとバカにしたいなら、だれからも文句を言われないくらいに、勉強を頑張らなくてはならないということになるのです。

 

学校には、他では学べないことがたくさんある

「勉強して知識を得ることは大事だ。でもそれは学校でなくても塾でもできるでしょう?」という意見もあるでしょう。しかし、学校でないと学べないこともあるのです。それを知らずに塾だけに頼るのはいささか危険と思います。

 

まず、学校では集団の中での動き方、ふるまい方を学ぶことができます。塾では、子どもたちは一人一人が、言わば大事なお客ですから、それは大事に扱われるはずですが、学校ではそうはいきません。

 

次に、塾は学力別にクラス分けをすることが多いですが、学校はそうではありません。むしろ、いろいろな学力、いろいろな性格、いろいろな行動タイプの子どもたちが一つのクラスの中にいるはずです。そのような場では、いろいろな人間がいるものなのだということを学べます。

 

最後に、学校でも塾でも、自分の意に沿わないことが起こることがありますが、そういう時に塾は簡単にやめられても、学校をやめることは難しいはずです。ですから、気に食わないことや嫌なことがあったとしても、それを何とか切り抜けていく練習の機会が与えられていると言えます。

 

この中でも、最後のポイントは、学校で最も子どもたちに身につけてもらいたい点だと言えます。子どもの頃だけでなく、大人になっても、自分の意に沿わないことに対応しなければならないことや、得意ではないのにやらなければならないことはたくさんあります

 

そんな時は、なるべく無難に事をおさめたり、大きな失敗とならないようにしたりして、なんとかやっていかなければなりません。ところが最近の若い人たちの中には、会社の先輩に会いたくなくて欠勤したり、自分には向いていない仕事だと思って転職を繰り返したりする人がおり、気に食わないことにうまく対処する力が不足しているように思われます。

 

学校ではいろいろなタイプの子どもがいると同時に、様々なタイプの先生たちも集まっています。残念ながら、みんなから慕われ指導力も抜群の先生ばかりではありません。教え方が分かりにくく、意地の悪い先生もいるのが現実です。

 

そしてさらに残念なことに、子どももそのことがよく分かっているのです。いい先生が担任になってくれれば、学校生活を十分楽しめるでしょう。ですが、そうではない先生だった時には、学校に通うのが苦痛になってしまうかもしれません。しかし、担任の先生を誰にするかは子どもたちにゆだねられていませんから、何とか過ごしていくしかないのです。

 

そんな時にはこう考えてみてはどうでしょう。「学校は嫌なこともあって、しかもそれが自分の力ではどうにもならないこともある。そんな時に何とか過ごしていく力を学ぶのが、学校なのだ」「尊敬できない先生であったとしても、先生は先生。ひとまず諦めて、まずは従ってみようと考えるのは、これから先社会の中で生きていくのには役立つことだ」というように。

 

また、「いやだいやだと思っている人にも、何か一つくらい良いところがあるはず。それを見つけられたら素晴らしいことだ」と考えるのも良いですね。子どもだけではこのような発想の転換は難しいですから、ぜひ、親御さんから子どもたちに教えてあげてほしいものです。

 

一番残念なのは、嫌な先生に当たったばかりに、その先生に教わる勉強まで嫌になってしまうことです。たった1年、たった一人の先生のために、自分が勉強する機会を奪われるというのは、ばかばかしいことではないでしょうか。それも子どもたちに伝えたいことです。

 

嫌な先生と一緒にやっていかなければならなくなった時は、勉強する気も失せるものですが、逆にその勉強を一生懸命やってテストで高得点をとれば、その先生はその子に対してとやかく言うこともないはずです。そのような具体的な対策がとれるよう、大人たちが教えてあげたいものですね。

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