facebook Twitter はてなブログ feedly

自分らしく、人間らしく生きるために勉強しよう!

自由に勉強

学校での勉強をしていると「今学んでいることは、大人になって何の役に立つのだろう。生活していく上で必要なことなのだろうか」と思うことがあるはずです。確かに、大人になった時の自分の生活に、直接的に結びつかないことも多いでしょう。ですが、より自分らしく生きたい、人間らしく生きたいと考えるのであれば、やはり勉強しなければならないのです。

 

勉強しなければ、自分らしい人生を送ることができない

勉強する理由は、自分らしく人生を送るためだと言えます。なぜ、勉強すれば自分らしく生きられるのか。

 

700万年もの昔、人間たちはまだ狩りをしたり植物を採取したりして生活していました。その生活ぶりはサル同様ではありましたが、人間たちは早くも勉強をしていました。生きていくためには、相手を敵だと判断できる力、天候を予想する力、食べられるものと食べられないものとを見分ける力などが必要で、それらを学ばなければ生きていけなかったのです。

 

そのことが私たち人間にもたらしたものは、「この事はこの事と結びつく」と瞬時に連想できる能力です。例をあげれば、山の中の草むらで何かががさっと動いたときに、「獣がいるかもしれない」と無意識のうちに判断し警戒するといった能力です。

 

この能力はあらゆる情報に隠れている、今の自分に必要な個所を選びだすことができるため、とても価値のあるものです。でもそれがとても上達してくると、若干困ったことをも引き起こすようになりました。壁についた古いシミが怖い顔のように見えて恐ろしくなってしまうといった現象です。

 

それがさらに行き過ぎると、「女性は結婚したら働かず家事や育児に専念すべき」「髪が長く色が白いのが美人である」などという、風習や固定観念などが生まれるようになりました。狩猟をしていた時代や、一昔前の時代であれば、まだそれでよかったかもしれません。ですが今は少し事情が違います。

 

社会はグローバル化し続けていますし、様々な価値観も存在しています。そんな世界で生きている私たち現代人は、風習や固定観念によって苦しめられるようになってきたのです。これらに囚われ過ぎると、自分が本当にしたいことができず、自分だけの人生を送ることができなくなるのです。

 

学校というのは「これが正解」「これが不正解」と教える場でもありますから、風習や固定観念などに通じるものがあるかもしれません。それで学校での勉強が嫌になることもあると思いますが、学校から一方的に提示される正解・不正解が嫌であれば、まずはそれらを完全に理解する必要があります

 

学校が提示する正解・不正解をきちんと理解して使えるようにならなければ、それが本当に正しいのか、間違っているのかを論じることはできないわけです。だから、学校で教わる勉強は、やはりやらなければならないということになります。

 

自分が囚われているように思われることでも、きちんと理解して自分のものにしなければ、それらをはねつけて自分らしく生きることはできないというわけです。

 

人間が築いてきた文化を最初から学ばなければ、本当の答えは見いだせない

紀元前4世紀の終わり頃から人間は、文字を使い始めたと言われます。それから人間たちは、目には見えない、形には表せないことについて考え続けました。「私たちはなぜ存在するのか」「世界は一体どういうものなのか」「自分という存在は何なのか」「美しいものはなぜこの世にあるのか」などという問いは、人間でしか考えられなかった「大いなる疑問」です。

 

このような「大いなる疑問」を解決するためには、その前に存在するたくさんの「小さな疑問」を解決する必要があり、人間たちはその「小さな疑問」への答えをたくさん積み上げてきたのです。ここで大事なのは、最初は漠然とした答えだったのに、同じ問いに対するものでも、どんどん焦点がはっきりとした答えになってきているという点です。

 

例をあげましょう。紀元前500年ころの哲学者ヘラクレイトスは、この世に存在する全てのものは、常に移り変わっていると考えました。その考えをもっと深めた研究により、今では、人間の体の中にある細胞内では、どのくらいのスピードで代謝が行われているかということまで、はっきりと解明されています。

 

ヘラクレイトスの考えは、その後の人間たちのたくさんの研究によって、現在、もっと具体的で、焦点が定まったものになっているのです。このように、人間たちは「大いなる疑問」に近づくための「小さな疑問」をどんどん解き明かし、また、より鮮明な答えを導き出してきたのです。

 

でも、私たちが勉強する時に、現段階でわかっている、より鮮明な答えだけ知っていればよいのかといえば、そうではありません。大昔のもっと漠然とした答えから順に、どのように答えの焦点が定まっていったのかを、やはり知る必要があるのです。

 

私たち人間は、この世に生み出される前、つまり母体にいるときに、人間が通ってきた進化の道を、同じようにたどって成長していくということが分かっています。人として進化しているにもかかわらず、生まれてくる前にもう一度進化の過程を踏みなおしてくるというのですから、不思議です。

 

人間の文化の発展も、似たようなことが言えるのではないでしょうか。つまり、先人たちがヘラクレイトスの言葉で答えを終わりにせずに、ヘラクレイトスがそう考えるに至った道をもう一度たどったうえで、さらに詳しく説明しようとし続けた結果、現在に至るのだと思われるのです。

 

勉強もやはり、同じようにやっていくべきではないでしょうか。確かに今は、知りたい情報はネットを通してすぐに手に入れられます。とても都合のよい半面、困ったこともあるのです。その情報は、どのような過程を経て出来上がったものなのかということが、全く分からないという点です。

 

どんな知識でも、そこに至るまでの過程があるはずです。その一番はじめの部分から知り、次にこのような考えに深まって…というように、今現在ある最新の知識に至るまでの方向が分かれば、その知識が今後、どのような方向へ向かっていくのかを考えることができるのです。

 

教養ある人になるためには、まずは学校で習うことをどんどん頭につめこんでいくこと

「頭のいい人」という言葉には、似たようなものがいろいろあります。「物知りだ」「雑学王だ」「機転の利く人だ」などなど。しかし、単にいろいろなことを知っていたり機転がきいたりするだけでなく、本当の意味で教養のある人になりたいものです。では、本当の意味で教養があるというのは、どのようなことなのでしょうか。

 

それは、今現在ある情報を、そのまま覚えたり、使いこなしたりするだけでなく、なぜそのような情報になったのかという過程をも知っていることです。

 

今、学校で習っていること、例えば数学の微分・積分や、理科の光合成の仕組みなどは、先人たちが「どうしてだろう」「どうなっているのだろう」「知りたい」という強い思いを抱いて研究した結果、出来上がった理論です。

 

教科書では数ページで説明されてしまうことでも、そこに至るまでは、気の遠くなるような歴史があるのです。学校ではそこまでは教わらないことでしょう。ですが、子どもたちにはぜひとも伝えていかなければならないことだと思います

 

そのような話を聞くことで、「なぜ人は勉強するのか」という答えにも近づけますし、勉強というのは、知識としてただ詰め込むものではなく、今後私たちが抱くであろう疑問のもとになるのだということが分かります。

 

今与えられている知識には、長い歴史があるのだということを教われば、その後は自然と「このことについては、昔はどのように考えられてきたのだろう」と、過程についても目が行くようになり、そうなれば、勉強はグンと面白いものになっていくのです。

 

ただし、過程について考え、理解するには、やはり今与えられている知識をしっかりと理解して頭に入れる必要があります。人類の文化の歴史は3千年とも5千年とも言われており、過程について考えるためには、学生でいられるうちはどんどんと知識を頭に入れていかなければならないのです。

 

「大いなる疑問」を解決するために「小さな疑問」を解き明かし続ける

私たち人間は、はるか昔から「なぜ自分はここにいるのか」「人間とは何か」「世界は今後どのように動いていくのか」などという「大いなる疑問」を抱いてきました。その答えに近づくために、人々はいろいろな方法を試みてきました。

 

数学から解き明かそうとした人もいますし、芸術からの試みをした人もいます。そのように、いろいろな方面から答えを導き出そうとした結果、現在ある「教科」というものに発展したのかもしれません。

 

教科にはそれぞれ、様々な「小さな疑問」が存在します。それを丁寧に答えていくことで、初めて「大いなる疑問」について考えることができるのです。その小さな作業を怠ることはできません。

 

突然「人間とは何か」ということを語ろうとすれば、納得のいく理論的な答えは出ず、神様が作ったとか、宇宙の理にしたがっているとかいう、漠然としたものになってしまいます。それですべてが説明されてしまうので、私たちはそこから先には行けなくなってしまいます。

 

ということで、やはり、様々な分野における「小さな疑問」を、丁寧に一つずつ解き明かそうとしていかなければならないのです。

 

もちろん、「小さな疑問」を解き明かすことにばかり目が行って、肝心の、「大いなる疑問」というゴールを見失ってしまうようでは、本末転倒です。これは、普段の勉強においても同じことが言えます。

 

漢字練習を積み重ねて漢字を覚えることは大切なことです。ですが漢字を覚えるのは、その先にあるもっと大きな目的を達成するためであることを忘れてはいけないのです。漢字を覚えなければ、論文を書くことはできませんから、漢字練習を怠るわけにはいきません。ただし、漢字を覚えることがゴールだと錯覚しないように注意が必要なのです。

 

人間だけが抱いた「大いなる疑問」が、人類の進歩をもたらした

「自分という存在は一体何なのか」「世の中のものはどうやって成り立っているのか」などという「大いなる疑問」は、地球上の数ある生物の中で人間しか持ちません。なぜなのか。それは、人間の成長の仕方が、他の生き物とは大きく異なっていることに関係しています。

 

人間は、他の生き物たちと比べて、性の成熟がとても遅いということをご存知だったでしょうか。人間よりも他の生物たちの方が断然早く、子どもを作ることができるようになるのです。

 

それは、こういうことだったのではないかと考えられます。人間の祖先であるサルたちの中で、突然変異が起こったものがあり、子どもを作る能力がなかなか育たないサルが出てきました。

 

子どもを作る能力がつくのが遅いというのは、種の存続で言えば決して有利とは言えないはず。それなのにこのタイプのサルの方が栄えるようになってきたのです。このことから、子どもを作れない、すなわち自身が子どもである時期が長いということは、種の存続にも有利に働いたと言えるのです。

 

性的に成熟したということは、大人になったということになります。そうなると、自分のえさは自分で確保しなければなりません。自分という種を存続させるために、メスをめぐって他のオスとも戦わなければなりません。やらなければならない厳しいことが、たくさんあるのです。

 

子どもであればそんなものは不要です。だから自由に遊ぶことができます。ここが大切なのです。長い遊び期間の中で好奇心が育ち、それによっていろいろなことを知ったり、新たな技を習得したりすることができるようになったのです。学びの期間が長くなったとも言えるでしょう。

 

このことはすなわち、遊んでいられる期間が長かったことで、脳がより発達したということになります。種の保存という側面からは不利だったはずの成熟の遅さが、逆に繁栄をもたらしたという、一つの説です。

 

人間だけが手にした子ども期間、つまり十分遊べる期間が脳を発達させ、ひいては、「自分は何者なのか」「世界はどのようにつながっているのか」などといった「大いなる疑問」を考えるようになり、その疑問を解決させるために、様々な発見をし、今も進歩を続けていると言えるのではないでしょうか。

 

そう考えてみると、人間の子ども時代というのはやはりとても大切な時期です。この時に脳を適切に刺激し、「大いなる疑問」を持つことが大事なのです。そうなれば、それを解決するために、自分なりに学び続けることができるようになるのです。

 

子ども時代は思い切り遊びましょう。一人で黙々と好きなことをして遊ぶもよし、友達と協力、または対抗しながらする遊びもよしです。遊びの延長として勉強があればなおいいですね。

 

「すごいな!」「不思議だな!」と思う心から勉強が始まる

子どもの頃は、自分の身の回りにあることについて「すごいな!」「不思議だな!」と感動する心がありましたよね。大人になっても感動することはたくさんありますが、それでも子ども時代のフレッシュな気持ちにはかないません。

 

ですから、子どもたちにはこの、「すごいな!」「不思議だな!」と思える時代を大切に過ごしてほしいものです。そこから、自分の好きなことや物が分かってくるでしょうし、その好きなものを忘れずにいてほしいのです。その気持ちがあれば、人間が昔から考え続けてきた「大いなる疑問」にも近づいていくはずです。

 

「なぜ自分は存在するのか」「この世はどのようにつながっているのか」といった「大いなる疑問」。子どもたちが新鮮な驚きの気持ちや「これが好き!」という気持ちを大切にし続ければ、いつかその「大いなる疑問」も降ってわいてくるのです。

 

自分が感動を覚えること、自分が好きなものに熱中していれば、いずれ「どうしてこれはこの世に存在しているのだろう」「どうしてこんなにもこれに惹かれるのだろう」という気持ちになり、「大いなる疑問」に近づいていくわけです。

 

そしてその「大いなる疑問」を自覚したときに、人は勉強したいという強い気持ちがわいてくるのです。

 

人間特有の「大いなる疑問」を感じることができれば、一生懸命勉強するようになる

人間は太古の昔から「なぜこの世に自分という存在があるのか」「そしてその自分という存在は一体何なのか」などといった「大いなる疑問」を感じ続け、それに対する答えを見つけるために様々な「小さな疑問」を解き明かしてきました。

 

だから、「大いなる疑問」を持ち続けることはとても大切なことです。しかし、「それを考えたところでいい高校、いい大学に入れるわけではない。儲かるわけでもない」と考えられてしまいがちです。

 

確かに、「大いなる疑問」について考え続けていくことは、成績アップや給料アップに直結するものではありません。でもその代わり、人生に彩りや深みをもたらしてくれます

 

「大いなる疑問」について考えても儲からない、と考えている人は、生活するうえで役立つものや便利なものが必要なのでしょう。そのようなものを開発するための「技術」はもちろん必要ですが、私たちの生活には、「大いなる疑問」をいかに解決するかという考え方である「科学」も必要です。

 

教育界でも似たようなことが言えます。最近は、就職した後にすぐ使える人間を育てるために、学校でももっと職業訓練の要素を持った教育をすべきと考える風潮があります。でも本当にそれでいいのでしょうか。教育の現場ではやはり、具体的な技術よりは、問題解決するための思考方法を学んでほしいと思います。

 

最近の大人たちの中には、子どもに対しても、将来の仕事に役立つような力を習得させたいと考える人が多いようです。でもそれでは、子ども時代に感じるはずの「すごいな!」「不思議だな!」という気持ちや、それによって導き出される「大いなる疑問」に出会う機会を失ってしまいます。

 

それはイコール、深みや彩りのある人生にするための大切なことを失うということになるのです。将来の仕事に役立つように、という考え方が強すぎるから、学校の勉強に対して「こんなことをやって、何の役に立つの?」という気持ちになってしまうのではないでしょうか。そんな気持ちになってしまったら、目の前の勉強に対して真剣に取り組めません。

 

言ってみれば、「すごいな!」「不思議だな!」と感動する気持ちは、大人にこそ持っていてほしいものなのかもしれません。大人がこの気持ちを持ちながら生きている姿を見て、子どもも自然とそういう気持ちを持ち続けることができるようになるのです。

 

そしてその気持ちから発展して、「大いなる疑問」を感じるようになれば、目の前にあるやらなければならない勉強に対しても、一生懸命やれるようになると思うのです。

※当サイトではアフィリエイトプログラムを利用しています。

このページの先頭へ