子どもの「勉強しなければいけないのはなぜ?」の疑問に答える前に
たいていの子どもは一度くらい、「勉強しなくちゃいけないのはどうして?」というような疑問を親にぶつけてくるものです。そんな時、親はきっと、子どもが納得する答えを言わなくては、と思うことでしょう。でもちょっと待って。その前に少し考えてみましょう。親は子どもを納得させるような答えを、本当に出してあげなければいけないのでしょうか…?
「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」に対して答えを出す必要はない
最近の子どもたちは、勉強しなければならない理由を大人に尋ねることが多いようですが、昔はそんなことを言う子は少なかったようです。もしも言ったとしたら、何をばかばかしいことを言っているのだと一蹴されたことでしょう。
戦後、日本が民主主義国となると同時に、子どもに対する考え方も大きく変わりました。つまり、子どもに寄り添い、子どものいうことに耳を傾け、尊重しようとする考え方になったのです。それは良いのですが、この考え方は意外なところに落とし穴があったのです。それは、子どもから自分で考える力を奪ってしまった原因の1つということです。
もしも本当に知りたいことであれば、ばかばかしいことを聞くなと言われたとしても、子どもは考え続けたでしょう。逆に、大人が子どものこのような疑問をきちんと取り上げ、真面目に考えて答えようとしたために、子どもは自分で考える機会を失ってしまい、自分で考え抜く力が弱くなってしまったのではないかというわけです。
芽生えた疑問に対して「くだらない」と取り合ってもらえなかった場合、「なぜ答えてくれないんだろう」と憤慨し、それならばと自分で何とか答えを見出そうとするのが本来の姿です。ところが、どんな疑問にも答えてもらえて、その答えを理解すればよいような状況になってしまい、自分の頭を使って考える必要がなくなってしまったとも考えられます。
私たちが生きているのは、決して自分のためだけではありません。「私の命は私のもの」と考えている人が多いかもしれませんが、本当にそうでしょうか。昔は、子どもは親のいうことを聞き、家の仕事も年下の面倒も全てこなしてきました。子どもがいる理由は、親が生きていくためだと言っても過言ではなかったかもしれません。
この事は、子どもは親のためにいる、ということだけでなく、人の命はその人のものだけではない、ということを表しているのではないでしょうか。それに気づくことができると、「じゃあ、なぜ自分は生きているのだろう。何のために生きるのだろう」と、深いことを考えるきっかけになっていたのです。
そもそも私たちは、この世の、この親のところに生まれてこようとして生まれてきているわけではありません。ということは、自分のこの命は、最初から自分の所有物ではないということです。
最近はよく、反抗期の子どもが親に対して「自分の人生なんだから勝手だろ」なんて言いますが、それは違います。自分の人生、つまり自分の命は、自分だけのものじゃない。この命は自分のものだなどというのは間違った考え方とも解釈できますが、今はその考え方が横行しています。
では、自分は何のために生まれたか、ということになりますが、そういうことを考えるのが宗教や哲学だと言えるでしょう。しかし、日本は残念ながら宗教というものが色濃く生活に根付いている国ではありません。もちろん、神社に願掛けに行ったり、法事などはきちんと行ったりするのですが、どうも外国のような、生活に根ざした感じはありません。
ですから、「自分の命は何のためにあるのか」ということを考える機会は、日常的にはあまりないのです。つまり、自分の頭で深いことをしっかりと考え抜くという機会が、やはり少ないということです。
勉強しなきゃいけないわけを、人から教えられて納得するとか、納得できないとかいう問題ではありません。自分のこの命が何のためにあるのかということを、誰かに教わるのではなく、自分で考えるしかないのと同じです。
勉強をすることに対して疑問があるのなら、勉強をやりながら、自分の頭で「なぜ勉強をしなければならないのか」ということについて考えていかなければならないというわけです。
子どもの疑問に「そういうものと決まっているから!」という答えはNG
「どうして勉強なんてしなくちゃいけないの?」と聞いてくる子どもに対して、つい「そういう風に決まってるの!」などと答えていませんか?この答え方はおすすめできません。なぜなら、子どもが自分の頭で考えるチャンスをなくしてしまう言葉だからです。
ある疑問に対して、「そういうものと決まっているから」という答えを出してしまうと、ある意味便利ではあります。なぜなら、決まっていることだからかと理解してしまえば、もうあれこれ悩む必要がなくなるからです。大人はこのように割り切って生きていることが多いかもしれません。でも、疑問についてそれ以上悩まなくてよいということは、すなわち、自分の頭で考えることをストップさせていることになるのです。
昔の人は、子どもから何か疑問を投げられたとき、「ばかばかしいことを聞くな!」と一括することもありましたが、それと、「そういうものと決まっているからだ」と答えるのとは、決して同じではありません。「聞くな」と言っているだけで答えは言っていないからです。だから、「自分で考えろ」というメッセージにもなるのです。
最近は、親も教師も、「そういうものだから」と答えてしまう傾向にあるようです。どうやら大人たちは、子どもの疑問に対して答えを示してやらねばと思っているらしく、子どもが考えるのではなく、大人が出した答えを理解すればよいという流れにあるのではないでしょうか。今の世の中の人たちはとかく、正解を欲しがるのです。
でも本当は、答えが出ないことなんてたくさんあるのです。例えば、コンピュータの進化は目覚ましくて、何でもコンピュータでやれてしまう時代です。それはとても便利ですよね。でも、コンピュータが進化すればするほどどうなるかというと、人間の手が必要なくなっていくということになるのです。それは本当に良いことなのでしょうか。
人間が一生懸命研究して、コンピュータをもっと進化させればさせるほど、人間というものが必要なくなっていく。この矛盾を私たちはどう解決していけばよいのだろう。そんな疑問にはなかなか答えが出せませんよね。
同じように、お金の価値についても、答えが出ない問いが出てきそうです。お金の価値というのは人それぞれですし、これが正解というものはなかなか出せません。自分の1か月分の給料と同額の商品を目にした時、きっとあなたは混乱することでしょう。1カ月働いた自分の苦労が、この商品と同価値?と思うかもしれません。
このように、答えがなかなか出せない問いは、この世にはいっぱいあります。それでもその問いについて考えていかなければならないのです。簡単に答えを出そうとしちゃいけないわけです。逆に、あっという間に出る答えは信頼できるものなのかどうか、疑わしいものです。
一昔前は、不思議なことがあり触れていました。それが今では答えがホイホイと出てくる世の中になってきてしまいました。便利ではありますが、子どもの発達という視点で考えると、憂うべき状況であると言わざるを得ません。
本来、子どもの前に広がっている世界は、全て不思議なことの宝庫です。だからこそ、子どもの興味関心がどんどん膨らむのです。それなのに世の中の全ての事に答えがあるとなってしまっては、興味関心を持てるわけがありません。どうしてだろう、不思議だなと思って、正解を探し続けるくらいが良いのです。
大人になるとなんでも知っているようなふりをしてしまいますが、大人だってわからないことだらけなはずです。だから大人も子どもと同じく、いつまでも正解を求め続ければよいのです。
どうして勉強をしなくてはならないのか。何のために自分はこの世に生まれたのか。そのような壮大な疑問には、簡単に答えを出そうとしなくていいのです。そんなことをしたら、無理やりくっつけたようなおかしな答えになってしまいます。答えはなかなか出ないにしても、このような疑問はいつまでも考え続けるべきものなのです。
逆に、疑問に思ったことを自分の頭で考える力がある子どもは、「なぜ勉強しなければいけないのだろう」と思ったにしても、大人にその疑問をぶつけることはないかもしれません。考える習慣のある子どもは、これは答えがすぐに出るものか、それとも大人でも答えがなかなか出ないような疑問なのかが、何となくわかるものだからです。
親に勉強する意味を問う子どもの本心は?
子どもから、勉強などどうしてしなければならないんだと問われたら、何と答えようかと考える前に、なぜその子はそんなことを言いだしたのか、その心のうちを考えてみたほうが良いでしょう。
子どもがそのような疑問を抱いてしまった背景には、どんな状況があるのか。例えば、厳しい塾に無理やり行かされていて、もう行きたくないという状況からそう思ったのかもしれませんし、買ったばかりの漫画をどうしても読み切りたいという気持ちから、そのような言葉が出たのかもしれません。
大事なのは、勉強はどうしてしなければならないのかという問いを発した子どもが、どのような状況に置かれているのかということを、親がしっかりと見極めることです。もしもその言葉の背景がわからないようだったら、子どもと正面から向き合っていないのかもしれません。
子どもと正面から向き合うということは、子どもの疑問に正解を与えることでも、親の説明を分からせることでもありません。どうしてこの子はこんなことを言いだしたのだろうと、自分なりに思考を巡らせるということです。
つまり、人が勉強する意味を説明する必要はないということです。なぜ勉強しなくちゃいけないのか、という疑問は、勉強などもうやりたくないという気持ちから生まれているのですから、そこに気づいてあげなければいけないのです。
親が行かせたい学校があって、そのために塾に入れられ勉強ばかりの毎日を過ごしている子どもが、「なぜ勉強をしなければならないの?」と聞いてきたのなら、親はもう一度胸に手を当てて考えてみましょう。「本当にこの学校に進学することが、そしてそのために勉強に追われる毎日を過ごすことが、この子にとって幸せなことなのだろうか」と。
勉強することの意味を聞いてくる時は、子どもの本心が隠されていることが多いのです。だから、その本心に対してどう親が対応していくかが大事なのです。目の前に起こっている問題そのものをどうしようかと考えるのではなく、その裏に隠されている事実をどうにかしなければどうにもならないということは、他にもよくあることです。
例えば、ダメだとわかっていても子どもに手を上げてしまう親に対して、「暴力はいけない!」というだけでは解決になりません。その親が抱えている問題、例えば夫が育児に非協力的だとか、自分の親からも暴力を受けて育ってきた過去があるとか、そういうところに目を向けて解決していかなければならないのです。
「どうしてこの子は突然、そんな変なことを聞いてきたんだろう」と思うような質問を子どもがしてきたときは、裏に何か問題が隠されているかもしれないと考えるようにしましょう。それこそが解決しなければならない問題なのかもしれません。
でも、「どうして勉強なんかしなくちゃならないのだろう」という疑問をもっている子どもは、実はとても正常です。なぜなら、学校で勉強を教わるという仕組みは、本来自由な存在である子どもに合うものではないからです。だから、そんな疑問も感じずに黙々と勉強することができる子どもの方が、本当は心配なくらいかもしれません。
子どもには好きなことを好きなだけやらせよう!
「なんで勉強なんかしなくちゃいけないのかなあ」と考えてしまう子どもたちは、今やっている勉強が、どんな時に役立つ知識なのかが分かっていないのです。それは、勉強というものが教科に細かく分かれてしまっているからかもしれません。
そもそも学問というのは、理科や社会というように分かれて成り立っているものではなく、1つの大きなものなのです。でも、それを大きいまま考えたり勉強したりしようとすると大変だから、分類分けされて、教科ができたのです。そして、すべての教科をいっぺんに極めるのは難しいから、それぞれの分野での専門家というのができてきたわけです。
このことは、学問というものを全体的に把握することを難しくしてしまったとも言えます。それぞれがどのようにつながっているのかが分かりにくいのです。だから子どもたちは、今自分が勉強しているところが、一体何の役に立つのやらさっぱりわからず、勉強する意味が分からなくなってしまうのではないでしょうか。
でも、全ての勉強は一つにつながっているのですから、どれか一つに興味をもち、それをとことん突きつめようとしたとき、その教科の知識だけでは追いつかないことに気づくでしょう。
例えば、魚に興味をもって調べ始めても、地理的な知識が全くなければ、魚の生息分布を知ることはできません。より深い知識を得るためには、外国での研究論文も読まなければなりませんから、英語の勉強も必要です。興味をもったのは魚の事なのに、生物以外の分野とも、いつの間にかつながっていくのです。
ですから、総合的に勉強をさせたいと思ったら、何か一つ、その子が興味をもったものをとことんやらせてみるとよいのです。そうすれば、結局そのことだけでは足りないということにおのずと気づき、自分からいろいろな勉強に取り組むようになるはずです。
現実問題、このようなやり方で勉強に取り組んできたという子どもたちは、それほど多いわけではありません。東大に入学してきた生徒たちを見てもそうなのです。東大にはいろいろな高校の生徒が受験し、合格して入学してきます。その中でも注意が必要なのが、新設したばかりの高校から入学してきた生徒たちです。
彼らの卒業した学校はできたばかりですから、「東大に何人入った」というような実績が欲しいのです。だから高校側は、東大に合格できるようにという視点で、必死に勉強をさせてきています。そのような教育を受けた生徒たちの多くは、東大に合格できるのですが、その代わり、入学した後に困ることになるのです。
東大合格をゴールとして頑張ってきた人たちですから、いざ東大での生活が始まると、何事に対してもやろうとする気持ちになれず、どんどん周りから遅れていってしまうのです。
これがもし、小さい頃から一つの何かに没頭し、そのためにはほかの勉強も必要だなと気づいて、全ての教科の勉強に自分から取り組んできた人であれば、もともとやりたいことがある訳ですから、入学した後に燃え尽きることなどないのです。
一つの事だけを追いかけて、パッと見ただけでは勉強もせずに熱中しているように見えても、やることはやっているので東大にも合格できる。そんな人もいるのです。
周囲の大人が叱咤激励をして勉強させたとしても、必ずしもいい結果になるとは限りません。それならば、本人が興味をもっていることをとことんやらせてみればいいのです。そこから「すべての教科の勉強が必要なのだ」と気づくことで、自ら勉強に取り組むようになるのですから。
勉強をすることで得られる喜びを子どもたちに伝えよう
勉強などしたくない、何でしなければならないのかといっている子どもには、勉強をすることでどんな喜びが得られるのかを伝えたいものです。それが分かったうえで、その喜びを感じなくてもよいというのであれば、別に勉強する必要はないでしょう。頭ではなく肉体を使ってできる仕事につくという選択もあります。
では、勉強することで得られる喜びというのは、どういうものなのか。それは、勉強をすることで、確実に自分というものが変わっていくのを実感できる喜びです。勉強するたびに自分が一回り成長し、視野がどんどん広がっていく。この喜びを、ぜひ子どもたちに知ってもらいたいと思います。
このことは登山に例えることもできます。上っているときはとても苦しいものですが、上っていけばいくほど、素晴らしい景色に出会える。頑張れば視界が開けていくのですから、苦しいけれどまた頑張ることができるのです。
どんどんと視界が開けていくと、それまでの苦痛はこのためだったのだな、ということが分かってきます。だから、今がつらくても、これを越えれば何かが変わる、と思いながら登り続けられるのです。山の頂にどんなものが待ち構えているかわからないし、自分が思っていたものと違うかもしれないけれど、それでも頑張れるようになるのです。
このプロセスそのものが、楽しいものなのです。勉強をすることで自分が変わる。今やっている勉強が苦しくても、きっとまた自分が成長できるからと思って頑張れる。このプロセスを楽しいと感じることができるようになれば、勉強すること自体、だんだんと苦しいものではなくなってくるのです。
これこそが、子どもに目指してほしい勉強の姿勢です。きちんと机の前に座り、正解を理解できることが、目指すべきところではないのです。また、勉強が楽しくなってくるには、大人が勝手にゴールを決めてしまわないということも大切です。決められたゴールに向かって淡々と勉強しても、面白いと感じることはできないでしょう。
最近の大人は、子どもに対して「世界に出ても通用するような人間になれ」という気持ちを持っていることが多いようですが、そこをゴールにして目指していかなくてもよいのです。極端な話、生きるか死ぬかという戦場のような状況の中で生き抜いてきたような方々は、英語を話せなくても、グローバルな視点などというものを知らなくても、世界中のどの国でもやっていけるでしょう。
人間はすべて、同じ一つのゴールに向かって生きているのではありません。生きている意味を、誰かに決められているのでもありません。それを、子どもたち自身に考えさせていきましょう。
人生について、生きる意味について、そして勉強する意味についても、たくさん考えさせましょう。悩んでもいいのです。悩むこともできないよりは、ずっと素晴らしいことなのですから。