チーズの栄養価と個性には、牛乳と乳酸菌が大きく影響する
チーズの原料である牛乳は、本来母牛が生まれたての赤ちゃんに効率よく栄養を与え、早く成長させるために、自らの体内で作り出した完全食品です。バランスよく必要な栄養素が消化しやすい形で含まれている牛乳の特色は、実は我々人間が加工食品の原料とするのにも最適なものでした。
改めて牛乳の持つ栄養や特徴を知ると同時に、チーズ製造の第一歩である「殺菌」から「乳酸発酵」への流れについて学んでいきたいと思います。
チーズの原料「牛乳」は栄養価が高く消化吸収に優れた飲み物
チーズは、世界中で古くから製造されており、その種類は1000を超えると言われていますが、その成分表示は、チーズの種類に関わらず、「乳」と「塩」だけとなっています。チーズの匂いや味わいにこれだけのバリエーションがあるのは、乳とそこに加える乳酸菌や凝乳酵素などの微生物の組み合わせのなせる技です。
※ヤギ乳を使用したシェーブルなど、牛乳以外の原料乳を使用したチーズもありますが、ここでは一般的に使用されている牛乳について主に見ていきます。(チーズの種類については「世界で最も古く、最も愛される食品「チーズ」の世界にようこそ」を参照ください)
チーズの原料の1つである牛乳は、身近な食品として親しまれ、また、たんぱく質、脂質、炭水化物、ビタミン、そしてカルシウム・リン・カリウムといったミネラルが含まれるなど、栄養バランスに優れた飲み物でもあります。また、たんぱく質には人が体内で作ることが出来ない必須アミノ酸が含まれ、栄養補給が効果的に行えます。
そもそも哺乳動物の赤ちゃんが効率的に栄養を補給するために、母体で作られた飲み物ですので、栄養価が高く、消化吸収に優れているわけですが、乳が持つこの特色は、チーズ作りにも役立つものとなりました。乳の成分を知ると、チーズをもっと食べたくなるかもしれません。
アミノ酸は組み合わせによって変幻自在、チーズの個性も左右する
チーズは、乳酸菌や凝乳酵素などの微生物が、乳に含まれるたんぱく質に作用して凝固させることによって作られます。牛乳に約3.2%含まれ、チーズ作りには不可欠である「たんぱく質」について、皆さんはどれくらいご存知でしょうか?
たんぱく質は、アミノ酸とよばれる分子が20種類、つなぎ合わさってできています。アミノ酸がどう繋がるかによって、様々な機能を持つ何千種類ものたんぱく質が作られます。アミノ酸は自然界に500種類もあると言われていますが、たんぱく質を作るのに関わるアミノ酸は、そのうちのわずか20種類です。
さてここで、高校の理科の授業を思い出すような図をご覧いただきたいと思います。これは、たんぱく質を作るアミノ酸の基本的な構造です。図の通り、中心にある炭素(C)から4本の手が出ており、カルボキシル基(-COOH)とアミノ基(-NH2)、水素(H)が繋がっていることが分かります。
もう1本の手が繋がっているのは「R」と書かれていますが、これは「側鎖」と呼ばれるもので、アミノ酸の種類によって変わる部分であり、それぞれのアミノ酸の特徴を決める部分となります。なお、アミノ酸は、旨味や酸味、甘味、苦味など食物の「味」にも関係していますが、これは側鎖の構造によって決定されます。
アミノ酸の個性を決定するのは、その原子構造だけではありません。原子の組み合わせは同じでも、その配置が鏡に映したように左右対称になっている「D体」と「L体」というものが存在します。体たんぱくを構成するアミノ酸はすべてL体ですが、チーズを形作る主要なたんぱく質である「カゼイン」も同じく、すべてL体のアミノ酸から出来ています。
L体アミノ酸の大きな特徴は、分解されて単体になったり、消化されてペプチドになる過程で苦みを生じることです。つまり、チーズ製造においても、熟成が進むと苦くなっていくのです。哺乳動物の体内で生成された乳を原料とするチーズの宿命でもありますが、この苦みをいかに減らすかは、作り手の努力と工夫しだいでもあります。
チーズの裏の主役「カゼイン」について知ろう
牛乳を鍋に入れて加熱すると、表面に湯葉のような膜が張りますが、この膜の正体が「カゼイン」です。カゼインはチーズ作りに不可欠なたんぱく質で、牛乳に含まれる乳たんぱくの約80%を占めています。
ちなみに残りの20%はホエーに含まれるホエーたんぱく質です。ホエーとは、チーズを固めた際に残る、透明な液体のことです。(ヨーグルトを数日おくと、表面に液体が浮いてきますが、これもホエーです)
カゼインは、牛乳だけでなく、ヒトの母乳にも含まれているリン酸化たんぱく質の1種で、およそ30種類の成分で構成されています。体内で生成できない必須アミノ酸をバランス良く含有しており、非常に栄養価が高いたんぱく質です。また、カルシウムやナトリウムと結びつきやすい性質を持っています。
乳を電子顕微鏡で見てみると、黒いツブツブがたくさんあるのが分かります。これは「カゼインミセル」と言い、直径100〜500nm(ナノメートル、1nm=0.000001mm)と、目に見えないほど小さな粒子です。乳の中に分散して存在するカゼインミセル粒子が光を乱反射することによって、乳は白く見えるのです。
哺乳動物の乳が、発酵と熟成という作用により、美味しくて保存がきくチーズという食品に姿を変える、この魔法のような工程に、カゼインが果たした役割は大きいのです。チーズ文化が栄えた裏の主役、カゼインの秘密を探ってみたいと思います。
カゼインは熱に強く、加工食品にしてもたんぱく質を効率よく摂れる
牛乳は、生まれたばかりの子牛に栄養を与え、育てるために母牛の体内で作られるものです。まだ幼い子牛が飲む乳は、消化管ですばやく吸収、消化して成長に必要なアミノ酸にする必要があるため、乳に含まれるたんぱく質であるカゼインも独特な構造を持っています。
カゼインの分子の中には、プロリンというアミノ酸が多く、しかもそれが乳の中に均質に散らばっています。これをランダム構造と言いますが、これにより、乳児やお年寄り、また体調不良の人でも消化しやすい「易消化性」のたんぱく質となっています。
弱い子牛が効率よくたんぱく質を摂取できるよう、カゼイン粒子は牛乳の中に大量に含まれています。
カゼインの粒子は「カゼインミセル」と呼ばれており、まるい形をしています。このカゼインミセルの外側は、水分となじみやすい性質を持っており、球体の中心部は反対に、水となじみにくい疎水性の領域となっています。
このカゼインミセルは、1000個ほどの更に小さい粒子の集まりでできており、水になじみやすい親水性の粒子となじみにくい疎水性の粒子の2種類にはっきり分かれています。カゼインサブミセルと呼ばれるその小さい粒子は、疎水性どうしがくっつき、そのまわりを親水性のものが取り囲む形で結合し、カゼインミセルを構成しています。
子牛を守り、成長を助けるために進化してきたカゼインの構造は、結果的に我々人間にとっても役立つものとなりました。それは、カゼインの持つ耐熱性です。
卵を加熱すると固まってしまうように、たんぱく質は本来熱に弱い性質を持っています。しかし、カゼインは110℃で10分加熱してもびくともしない耐熱性を持っており、加工食品でたんぱく質を摂取することを可能にしたのです。
カゼインは筋肉を作り、肝機能を調整し、ストレス疲れにも効果あり
トレーニングをする人たちの間では、BCAAと呼ばれる必須アミノ酸の一種が注目を集めています。BCAAとはその分子構造から「分岐鎖アミノ酸」と呼ばれているものの略称で、必須アミノ酸のバリン、ロイシンそしてイソロイシンのことを指します。
ヒトの筋肉に含まれるたんぱく質のうち35%を占めるのが、このBCAAです。つまり、筋肉づくりにBCAAが果たす役割は非常に大きく、また、運動することによって筋肉中のBCAAは分解されてしまいます。従って、運動直前にBCAAを摂取することが、筋肉量の保持や増大に効果が高いと考えられています。
BCAAはその他にも、肝臓において代謝調節シグナルの役割を果たすなど、肝機能向上にも効果が期待でき、また、中枢疲労という、頭を使いすぎたりストレスを受けた際に感じる疲労の予防や回復にも効果的であると考えられています。
カゼインのたんぱく質にはこのBCAAが非常に多く含まれています。すなわちチーズを食べれば、筋肉づくりや肝臓機能の調整、またストレス疲れに効果が期待できるBCAAを手軽にとることができるのです。
カゼインは、日本人に不足しているカルシウムと結合して牛乳中に漂う
飽食の時代と言われる現代でも、日本人に不足している栄養素をご存知ですか?それはカルシウムです。50歳以上の女性の3人に1人がかかっていると言われるなど、高齢女性に特に多い骨粗しょう症は、若い頃からのカルシウム摂取不足が原因で、骨折しやすく、また、それをきっかけとした寝たきり状態に陥りやすい病気です。
骨粗しょう症の予防以外にも、ストレスの軽減や体脂肪率を低下させるなどの働きもあり、積極的にとりたい栄養素です。このカルシウムを効率的に摂取できる食品として最も知られているのが牛乳ですが、ここでもカゼインが大切な役割を果たしています。
カゼイン分子の中では、非常に多くのカルシウムイオンが結合し、リン酸カルシウムという物質になります。このリン酸カルシウムが、カゼインミセルの形成にあたり、サブミセル同士をつなぎ合わせる役目を果たしています。すると牛乳の中でカゼインミセルが沈殿せずに液体の中に分散するため、どの部分もカルシウムが豊富に含まれます。
本来吸収されにくいカルシウムを、カゼインと結びつけて分散させることにより、母乳を飲む子牛が、骨の形成に必要な栄養素を効率的にとれるようになっているのです。
捨ててしまうホエーは、実は栄養豊富
牛乳に含まれるたんぱく質の80%はカゼイン中に存在しますが、残りの20%は乳清と呼ばれる「ホエー」に含まれています。チーズの製造工程ではほとんどが廃棄されてしまうホエーですが、その成分や摂取した場合の効果は注目に値するものです。
ホエーに含まれる「乳清たんぱく質」には、ラクトアルブミン、βラクトグロブリン、ラクトフェリンなどが含まれています。筋肉づくりに役立つBCAAは、カゼインよりもむしろホエーに多く含まれており、その機能性を生かさない手はないとも言えます。
チーズを固める製造工程において、チーズのもとになる塊を取り除いた液体として捨ててしまわずに、サプリメントの原料にするなどの二次利用は、今後、健康志向の高まりを受けて広がっていくでしょう。
乳脂肪には、ダイエット効果、生活習慣病の予防など、健康づくりに役立つ効果あり
牛乳には、様々な栄養素がバランスよく含まれており、脂質もその1つです。牛乳に含まれる脂質はおよそ3.9%ですが、そのほとんどは中性脂肪の「トリアシルグリセロール」です。
中性脂肪には、肥満やコレステロール値の上昇から、動脈硬化のリスクを高めると言われる悪玉のイメージがありますが、牛乳に含まれる脂肪分には、その心配はありません。
乳脂肪には、揮発性脂肪酸が多く含まれています。これは脂肪酸として一般的に知られる「長鎖脂肪酸」とは違い、体内に蓄積しにくく、肥満になりにくい性質がありますが、これは揮発性脂肪酸に多く含まれる「酪酸」という脂肪酸の働きによるものです。酪酸は「酪酸菌」とも呼ばれ、腸内環境を整える働きからダイエット効果があると考えられています。
揮発性脂肪酸は牛やヤギ、羊などの反芻動物の乳にしか含まれないことが分かっています。そしてこの脂肪酸は、チーズの熟成過程で、チーズ特有の味や匂いのもととなっています。つまり、チーズに含まれる肥満になりにくく消化しやすい脂肪分も、あの独特の風味も、原料乳にのみ含まれる特殊な脂肪酸の働きあってこそ得られるものなのです。
また、乳脂肪には約1%の割合でリン脂質が含まれています。リン脂質はヒトの体内で、細胞膜や神経組織の材料となったり、中性脂肪の運搬や貯蔵を手助けする役割があります。このリン脂質が不足すると、動脈硬化や糖尿病などの生活習慣病のきっかけとなることがあります。
チーズを食べることで、身体にとって大事なリン脂質もしっかりと採ることができます。
哺乳動物の乳に含まれる脂肪分の成分は、その種によって大きく違っていますが、その理由などはまだ分かっていません。今後の研究の進展によって、乳脂肪分の謎が更に解明されれば、私達の健康維持のためにも役立てられることが増えてくるでしょう。
少しだけ残った乳糖は、乳酸菌のエサとして不可欠な存在
水分を別にすると、牛乳に一番多く含まれている成分は炭水化物で、牛乳ビン1本(200ml)あたり約9.6gですが、そのほとんどは乳糖です。牛乳のやさしい甘味のもとはこの乳糖で、グルコースすなわちブドウ糖とガラクトースが結合したものです。一般的な砂糖と比べると甘味は強くなく、砂糖比で16%程度しかありません。
その乳糖ですが、チーズを製造する過程でほとんどが取り除かれてしまいます。というのも、乳糖はおもにホエー(乳清)の中に含まれているからです。
では、チーズづくりには乳糖はいらないということでしょうか?答えはNOです。酵素で乳を固め、ホエーと分離させても、チーズの中には5〜10%の乳糖は残り、乳酸菌の栄養源という大役を果たしています。
この乳糖の分量を調節するのが実は非常に難しく、チーズづくりの成否を左右するほどです。
乳を固めた「カード」というチーズの元からホエーを取り除きすぎると、乳酸菌の栄養源である乳糖が不足してしまい、熟成が上手く行きません。また、カード内のホエーの量が多すぎると雑菌が増殖し、異常発酵という状態を引き起こし、同様に熟成は失敗します。
牛乳からは、カルシウムやカリウムなど、必要な栄養素を効率的に摂取できる
牛乳がカルシウムを豊富に含んだ食品であることは、先ほども紹介しました。牛乳には、カルシウムやカリウム、ナトリウムといったミネラルがおよそ0.7%の割合で含まれています。これらミネラルが含まれる割合を見ていくと、乳がいかに、赤ちゃんを育てるために母が作り出した、特別な食品であるかが分かってきます。
牛乳に含まれるカルシウムのじつに90%は、リン酸と結合しています。つまり、牛乳の中には、リンとカルシウムがほぼ1:1の割合で存在していることになるのですが、これは自然界のあらゆる食品において希有な現象で、牛乳の食品としての完全さを物語る特徴とも言えます。
リンとカルシウムはどちらもヒトの体に必要な栄養素ですが、摂取のバランスが重要になります。例えばリンを過剰に摂取してしまうと、せっかく取り込んだカルシウムの吸収を阻害してしまうことが知られています。したがって、食品中に含まれるリンとカルシウムの割合が1:1である牛乳は、理想的な食品であると言えるのです。
また、ナトリウムはあまり含まれていない一方で、カリウムはナトリウムの3倍と、非常に豊富に含まれています。カリウムは、むくみの解消や高血圧の予防などに効果がある栄養素です。最近では、カリウムの摂取を増やすことで、血圧低下や脳卒中の予防、骨密度の上昇に繋がることが分かるなど、注目を集めています。
そして、哺乳動物の生命維持や成長といった活動に必要ではない成分は含まれていないというのも、牛乳の大きな特徴です。例えばアルミニウムは、地表にたくさん存在しているため、野菜や海産物をはじめとするほぼ全ての食品に含まれています。食肉にも含まれるのですが乳には含まれていません。
それは乳が、子供に効率よく栄養を与え、成長させるためだけに母体で作り出した完全食品であることの証でもあります。つまり、赤ちゃんに不要なものを排除して、必要な栄養素は最適な形で含んでいるということです。
どの牛のミルクがチーズ作りに適しているのか?
チーズは今や、1000を超える品種が世界中で製造されており、食卓にはかかせない食品でもあります。チーズの生産量や輸出量が多い国にとっては、国の経済を支える重要な産業であるとも言えるでしょう。より効率的にチーズを大量生産するためには、どのような原材料を選べば良いでしょうか?
チーズを構成しているのは、ほぼ同じ量のたんぱく質と乳脂肪、あとは水分です。このたんぱく質の80%はカゼインですので、チーズを一度により多く製造するという視点で見れば、カゼインを多く含む乳が「理想の原料乳」ということになります。
日本で乳牛として飼育されている主な牛は、ホルスタイン、ジャージー、ブラウンスイス、エアシャー、そしてガンジーの5種類がありますが、その99%はホルスタイン種です。他の種と比べて圧倒的な生産乳量を誇り、また体格が大きく食肉転売にも役立つため、狭い日本の酪農において重宝されてきました。
チーズやバターなどの乳製品づくりに適しているのは、たんぱく質や乳脂肪分を多く含む、濃い乳です。生産乳量が多いがゆえ、乳脂肪分は他の種と比べると少ないホルスタインの乳は、実はあまり食品加工向きであるとは言えません。
成分の濃い、加工向きの乳がとれるのはそれ以外の種、つまりジャージー種、ブラウンスイス種、エアシャー種、ガンジー種ですが、体格が小さく、生産できる乳量がホルスタイン種と比べるとかなり少ないため、なかなか飼育数が拡大していかないという現状があります。
高タンパク、高脂肪の乳から作られたチーズは、その味わいも格別です。今後日本でナチュラルチーズの製造が更に本格的に広がっていけば、より優れた原料乳へのこだわりからも、良質な乳を出す乳牛の飼育が活発化していくことが期待されています。
チーズの原料乳は高温で加熱殺菌してはいけない!
店頭に並んでいる牛乳は、すべて殺菌されたものですが、その殺菌方法は大きく分けて4つあります。
・63℃〜68℃で30分加熱する「低温保持殺菌(LTLT)」
・72℃以上で15秒以上加熱する「高温短時間殺菌(HTST)」
・75℃以上で15分以上加熱する「高温保持殺菌(HTLT)」
・120℃~150℃で1~3秒加熱する「超高温瞬間殺菌(UHT)」
これらのいずれかを使い、食中毒の原因菌を死滅させます。
では、チーズづくりに利用する原料乳はどうでしょうか?実はこれは、国によって対応が分かれています。世界の大部分では、原料乳の加熱殺菌が行われており、日本でも国産チーズの原料乳は加熱殺菌が義務となっています。
殺菌乳を使うメリットは、チーズの製造過程における異常発酵や、製品の輸送や保存の段階における、黄色ブドウ球菌やリステリア菌などの食中毒の原因菌の増殖を防止できることにあります。一方デメリットは、生乳にもともといた自然の菌が作用した、個性ある味わいのチーズづくりができなくなる、ということでしょう。
先ほど紹介した牛乳の殺菌方法のうち、最も高温で殺菌するUHT殺菌を使うと、ほとんどの菌を死滅させることができ、牛乳が紙パックで常温保存可能な状態になります。それならチーズの原料乳にもこの方法を採用するのが良さそうですが、実際は低温保持殺菌か高温短時間殺菌が一般的となっています。
その理由は、牛乳に含まれる乳たんぱく質の熱による変性にあります。牛乳に含まれるホエーたんぱく質には、システインというアミノ酸が非常に多く含まれています。新生児のうちは体内で生成することができないため、母乳から取り入れる必要があり、他のたんぱく質よりも多く含まれている成分です。
このシステインに熱が加わるとどうなるのでしょうか?
65℃〜68℃で行う低温殺菌の範囲内では、システインの活動は元々存在していたαラクトアルブミンやβラクトグロブリンという成分の分子内で行われ、変性には至りません。ですが、130℃を超えるUHT殺菌のような環境下では、繋がっていたシステイン分子の結合が解かれ、別の分子と反応しやすい状態になります。
この時同様に、カゼインの分子の粒であるカゼインミセルの表面にあるκカゼインという分子の結合が切れるため、システインとカゼインとが反応し、カゼインミセルの表面にホエーたんぱく質が付着して、カゼインミセルの外側からの他の酵素の働きかけをブロックする状態になります。つまり、チーズ製造工程で加える凝乳酵素もはねのけてしまうのです。
そのため、凝乳酵素を加えると通常は一瞬で固まるはずのものが、原料乳を超高温で殺菌した場合、全く反応しないか、固まるまで非常に時間がかかるという現象が起こります。この工程に時間がかかることにより、空気中の雑菌が混入するリスクが高まるため、チーズ製造においては絶対に避けなければならず、原料乳に超高温殺菌乳は使えないのです。
乳酸発酵のプロセス①:乳酸菌を選び、添加する
チーズの製造工程は、大まかには、
①原料乳の加熱殺菌
②乳酸菌を加えて乳酸発酵させる
③凝乳酵素を加え、固める
④塊を細かく切り分け、温度を上げてホエーを取り除く
⑤型に入れて塩水に漬ける
⑥熟成
の6段階に分かれています。ここでは、第2段階で、非常に緻密な計算のもと厳選される「乳酸菌」について見ていきたいと思います。
昔のチーズづくりでは、乳に元々含まれている乳酸菌や、洞窟の中に浮遊していたカビ菌など、自然界にあるものを利用していましたが、チーズが世界中の食卓に普及した現代では、安定的な大量生産を行うため、人工的に培養された乳酸菌を添加して製造しています。この乳酸菌のことを「スターター」と呼びます。
スターターとなる乳酸菌は、気の遠くなるような工程を経て作り出されます。まず、乳に加えた際、乳糖を活発に分解して増殖できるように、殺菌済みのスキムミルク(脱脂乳)に植え付けられます。これを3回繰り返すことによって、乳酸菌は増殖能力を高め、活性化しますが、これを「フレッシュカルチャー法」と言います。
スターターにどのような乳酸菌を選ぶかは、作るチーズの種類によっても違いますし、どのような風味のチーズに仕上げたいかによっても変わってきます。チェダーチーズなど一部の品種以外のチーズは、「混合スターター」という、いくつかの乳酸菌をブレンドしたものを使っており、現在8種類の乳酸菌の中から選択されています。
また、乳酸菌にも優劣があるため、これまでの実績をもとに優秀な乳酸菌を「乳酸菌ライブラリー」に揃え、使用目的に合わせて割合を変化させながら、スターターを作っていきます。このスターターは専門業者により市販されているので、規模の小さい酪農家や工房などは、業者を通じて混合スターターを仕入れています。
チーズの種類によって添加する乳酸菌は変わると先ほども言いましたが、では、どのような混合スターターを使えばいいのでしょうか?チーズ製造工程の4番目にある、「加熱してホエーを取り除く」際にどれくらい温度を上げるかが、チーズのタイプを決定づけると同時にどの乳酸菌を使って乳酸発酵させるかを決定します。
例えば、パルミジャーノ・レッジャーノやチェダーチーズなどのハードタイプは、ホエーを取り除く工程で45℃以上まで加熱します。これらは長期熟成タイプのチーズであるため、熟成中の雑菌による異常発酵を避けるために、殺菌効果が高い方法をとっているためです。この場合、高温に強いタイプの乳酸菌を選ぶ必要があります。
スターターは、その状態により「液状スターター」、「粉末スターター」そして「凍結スターター」の3種類に分けることが出来ます。この中で、近年世界各地でよく使われているのは、粉末タイプと凍結タイプの一部で、濃縮スターターと呼ばれるものです。
これは、菌数が高まるように濃縮することで、入手してすぐに3代目の培養が行えたり、あるいは原料乳にそのまま加えるDVI法という手法が可能になり、作業の効率化、また雑菌汚染のリスクを軽減するといった観点から支持されています。従って、DVI法が現在はチーズ製造において主流となっています。
乳酸発酵のプロセス②:乳酸発酵してこの先の工程の土台づくりを行う
原料乳にスターターを加えたら、次は「乳酸発酵」です。そのまま30分から1時間、静かに置いておくことで、乳酸菌が乳糖の中にあるブドウ糖を分解して乳酸に変えていく段階です。
乳酸発酵には、大きく分けて3つの働きがあります。
①酸性度が上がる:雑菌の増殖が抑制され、腐食を防ぎます。また、凝乳酵素の働きが最大化するpH値となるため、苦み成分につながる凝乳酵素の量を最小限に抑えることができます。
②乳中のカルシウムイオンが増加:カルシウムイオンはプラスに荷電するため、カゼインミセルの表面にあるマイナス電荷が中和され、次の凝乳酵素を加えるステップで乳がすばやく凝乳します。
③乳中の乳酸菌の数が増加:今後の熟成期間中に十分な酵素を供給する準備が整います。また、乳たんぱく質や乳脂肪の分解も進みます。
また、乳酸発酵には経路が2つあります。乳酸のみを生み出す「ホモ型発酵」と、乳酸以外にもアルコールや炭酸ガスも同時に生み出す「ヘテロ型発酵」があり、乳酸菌ごとにホモ型、ヘテロ型どちらの発酵タイプかはあらかじめ決まっています。
チーズ作りにおいてはホモ型発酵をする乳酸菌を選ぶのが一般的です。なぜなら発酵中にガスが出ると、チーズが膨らんでしまい、仕上がりが良くないからです。しかし、チーズの種類によっては、このガスが口当たりや見た目といった個性を決定づける、大切な役目を担っています。
スイスの代表的なチーズとして知られる「エメンタールチーズ」はその一例です。チーズに開いた大きな丸い穴からネズミがひょっこり顔を出すシーンは、外国のTVアニメでもおなじみです。この穴は、熟成の過程で卵の人口孵化器を使い温めることで、ヘテロ型乳酸菌を急増させ、炭酸ガスを発生させることで人工的に作っています。
その他のチーズでも、組織内に細かい気孔が入った状態に仕上げるためにはヘテロ型乳酸菌を活用するのですが、絶妙な量の炭酸ガスを発生させるために、添加する乳酸菌のブレンドの加減には繊細さが求められます。
適材適所で乳酸菌を選ぶことが重要
乳酸菌を利用した加工食品といえば、チーズ以外ではヨーグルトが広く知られていますが、これらの製造で使われる乳酸菌は、それぞれ違う特徴を持っています。加工食品づくりに携わるためには、その特徴を把握して、繊細な使い分けを行うセンスが必要です。
ヨーグルトを作るのに使われる乳酸菌の条件は、乳糖をすばやく乳酸へと分解できる能力です。一方、チーズ作りに適した乳酸菌にはカゼインを分解する能力が求められますが、あまりにも急速に分解を進めてしまうと苦みが際立ってしまい、風味が劣るチーズが出来てしまいます。時間をかけてカゼインを分解できる乳酸菌を用いるのがポイントです。
現在は、安定的な大量生産が最も重要であるため、優秀な乳酸菌株を培養する方法が中心ですが、本来ならば、チーズを製造する土地固有の乳酸菌を使うのが望ましいと言われています。古来からの製法で作られた「地のもの」のチーズは、生産者の顔が見えるような、個性のある風味が特徴ですので、機会があればぜひ味わっていただきたいところです。
先ほども触れましたが、現代のチーズの生産体制を支えているのは、乳酸菌スターターを供給する専門業者です。世界中の乳業メーカーや中小の生産者向けに、ヨーグルト用、チーズ用と用途に合わせた乳酸菌を安定的にストックし、販売しています。
業者が販売している市販のスターターを使うデメリットは2つあります。1つはコストが高くつくこと、もう1つは他社と同じスターターを使うと、独自性のあるチーズづくりができないことです。したがって大企業を中心に、スターター乳酸菌の自社培養に乗り出しています。
ここでは乳酸菌について見てきましたが、チーズづくりに利用される菌は他にもあります。有名なのは、ウォッシュタイプのチーズづくりに使われるリネンス菌です。リネンス菌と塩水を混ぜてチーズの表面を洗い、菌を増殖させていくと、赤みのある、納豆のような粘り気と独特の強い匂いが現れます。同時に内部では熟成が進み、旨味が増していきます。
乳酸菌スターターを感染から守る方法
スターターとして使用する乳酸菌が1種類だけであったり、同じ乳酸菌を何代にもわたり培養を繰り返していると、ウイルス感染の危険が生じます。乳酸菌を攻撃し、発酵して乳酸を作り出すことが出来ない状態にさせたり、更には菌体を溶かしてしまうそのウイルスはバクテリオファージといいます。俗にファージと呼ばれ、生産者にとって天敵です。
乳酸菌はファージに弱いため、生産者側は、乳酸菌はなるべくブレンドして利用したり、また、ローテーションを組み、同じ菌株を繰り返し使用することを避けるなど、ファージ対策を万全にしています。
中には、元々ファージに強い乳酸菌種もあります。ラクチス菌にはファージから自分の身を守る方法を3通り持っており、そのうちの2つは、細胞分裂してもDNA情報として受け継がれています。また、ラクチス菌が作り出す「ナイシン」という抗菌ペプチドは、食品添加物として有害菌の活動を抑えてくれるものです。
現在の日本では、チーズの原料乳はすべて加熱殺菌されていますが、もし将来無殺菌乳を使ったチーズづくりが解禁された場合は、ナイシンを生乳に加えることで、安全に悪玉菌対策ができるようになるでしょう。
遺伝子組み換え食品問題は、チーズ業界にも影響を与えている
遺伝子工学の進歩により、様々な作物で遺伝子組み換えが行われるようになり、遺伝子組み換えの原材料を用いた食品も作られるようになってきました。技術の進歩と安全性に関する議論は、同じ速度では進んでいないのが実情ですが、チーズ製造に不可欠な材料の一部について、遺伝子組み換えの手法を使った大量生産が可能になっています。
凝乳酵素のキモシンは、元々凝乳酵素として利用していた、子牛の第4胃から採れるレンネットが、チーズの大量生産化に伴い不足してきたため、その代替えとして人工的に生成されています。
具体的には、遺伝子を組み換えて大腸菌を大量に培養して作る他、酵母やカビなどの微生物を利用した遺伝子工学でもキモシンを作れるようになっています。
現在の世界のチーズ製造現場は、これらの遺伝子組み換え酵素なしにはチーズの安定供給はありえない状況となっています。日本においても、遺伝子組み換えキモシンは既に、厚生労働省より食品添加物としての安全性審査を経て承認されていますが、主要メーカーはまだ使用に踏み切っていません。
スターター乳酸菌のラクチス菌についても同様で、チーズ文化が根付くヨーロッパで遺伝子組み替えの研究が続けられてきました。その中の1つの菌株は、全ゲノム情報(DNAの全ての遺伝情報)が解析された初めての乳酸菌として有名で、乳酸菌研究に弾みをつけた存在とされています。
現在、研究はさらに深化し、欠点を補強し、弱みのない完璧な乳酸菌を作るところまで達しています。
それでも、遺伝子組み換え乳酸菌をチーズの製造に用いることは、ヨーロッパ、日本いずれにおいてもいまだ許されていません。背景には、太古からの自然の法則を踏みにじることに対する倫理的な問題があると考えられます。これは単なる安全性の問題というよりはむしろ、宗教的倫理観に近いものとの折り合いをつけるということでしょう。
将来、安全性が確認でき、倫理的な線引きができた後に、遺伝子組み換え乳酸菌を利用したチーズづくりが行われれば、チーズづくりに新しい未来が見えてくるかもしれません。
更新日:2023/05/31|公開日:2018/01/21|タグ:チーズ