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学校と塾の役割の理解が、将来と受験を助ける

塾で勉強する高校生

子供が成長し進学する事に関して、学校と塾は密接に関係してきます。しかし学校と塾のそれぞれの役割を説明する事は、意外と難しい事ではないでしょうか。学校と塾は、お互いに役割を分担する事で、日本の教育を支え、豊かにしてきました。

 

子供や保護者は、学校と塾がそれぞれどのような役割をもって日本の教育を支えてきたのかを把握すれば、学校も塾も、もっとうまく活用出来るようになるはずです。

 

日本の学力上位層の多くは塾に通った事がある

東大家庭教師友の会が実施したアンケートの結果によれば、東大の学生の約85%、また早稲田・慶應などの主要難関大学の学生の約95%が、塾に通った経験があります。

 

日本における学力上位層のうち、少なく見ても約9割は塾に通った経験があるという事です。早稲田や慶應などの学生に比べて東大生の方が通塾率が低いのは、東大生には地方出身者が多いからであると考えられます。

 

またこのアンケート結果では、「学習塾が必要だと思った時期はいつですか?」という質問についての結果も報告しています。

 

東大生では「中学受験時」が33.6%、「高校受験時」が23.5%、「大学受験時」が27.8%、「その他の時期」が15.2%という結果です。

 

早稲田や慶應などの主要難関大生では「中学受験時」が33.2%、「高校受験時」が26.8%、「大学受験時」が35.3%、「その他の時期」が4.7%という結果でした。

 

この結果から、日本の学力上位層のうち、3人に1人以上の割合で中学受験をしている事や、受験するにあたって塾に通う必要があると考えた学生が多い事が分かります。

 

日本の学校制度では、上級学校に進学するためには定員数のある入学試験を乗り越えなくてはなりません。その中で塾が不可欠な存在である事は、誰もが認めているといえるでしょう。

 

エリートは限られた塾に集まる

開成から東大へ、灘から東大へなどの学校歴の組み合わせは豊富ですが、興味深い事に、塾歴の組み合わせについては、四谷大塚から東進へ、サピックスから代ゼミへなど、意外にも限られています。

 

2017年の東大合格者数ランキングを例に取ってみると、合格者数トップ50にランクインしている高校のうち、私立または国立の中高一貫校は35校にのぼり、それらの高校からの合格者数を足すだけで約1400名にもなります。

 

毎年、東大の合格者総数は約3000名なので、少なく見ても東大生の半数近くが私立または国立の中高一貫校の出身生徒であるという事が分かります。数年前に比べるとその割合は多少減ってはいるものの、圧倒的である事にいまだ変わりはありません。

 

全国の高校は合計で約5000校あるにも関わらず、東大合格者数の半数近くが35校ほどの中高一貫校の生徒で占められているという事は、日本における学力上位層が、限られた中高一貫校に偏って存在している事を示しています。そしてそうした中高一貫校に入学するための中学受験を目標とした進学塾は、さらに数が限られています。

 

首都圏の中高一貫校は約340校ですが、通塾のうえでそうした学校に受かった生徒のうち、日能研、栄光ゼミナール、四谷大塚、早稲田アカデミー、サピックス、市進学院の6塾に通っていた生徒は合格者総数の約9割にもなります。

 

東大合格者数で首位の開成では、毎年約400名の中学受験合格者のうち、サピックスに通塾していた生徒が250名前後を占めるほどです。

 

関西においても、合格者の大半を占めるのは浜学園、希学園、日能研、馬淵教室、能開センターの5塾に通塾していた生徒で、ここ数年の約240名の灘中の合格者のうち、90名前後は浜学園に通塾していた生徒です。

 

そうした中高一貫校生が、大学受験を控えて通う塾も、数はそれほど多くありません。東大の合格者のほとんどは、河合塾、代々木ゼミナール、東進、駿台などの現役生向けコース、もしくは中小塾のうち、平岡塾、鉄緑会、SEGといった名門中高一貫校生向けの塾の出身者です。

 

日本のいわゆるエリートの大半が、ごく一部の塾の出身者で占められているのです。

 

受験のために大切な事は、自分に合った塾選び

塾の指導力の重要度は、名門校と誉れの高い進学校に通う生徒にとっても大きなものです。

 

教育雑誌の「日経キッズプラス」に掲載された現役東大生の座談会の模様では、参加していた麻布出身者、桜蔭出身者、灘出身者のいずれもが、「学校の授業は受験を意識したものではなかった。受験勉強はもっぱら塾でした」と述べています。

 

実際のところ、東大などの難関大学の学生の意見の中では、「大学受験だけでいうなら、学校よりも塾の方が役立った」というものが多く見られます。

 

確かに進学名門校では共通して、学校では受験勉強について詳細には指導しません。放課後に強制するような補習はほとんどありませんし、宿題も多くはありません。その分の時間を、生徒たちはそれぞれの学習スタイルに合った塾に通う事で活用し、大学受験を切り抜けるのです。

 

週刊誌は毎年春先になると、高校別の東大合格者数ランキングを発表します。そのたびに、どこの高校が順位を上げたとか、この高校は順位を下げただとかいった事が話題になりますが、実のところ、それらの高校の生徒のほとんどは、受験勉強については塾で行っているという事です。

 

ですから、良い大学への進学を希望するなら、大学への進学実績で高校を選ぶよりも、それぞれの学習スタイルに合った塾を選ぶ事の方が重要です。大学への進学に関してだけでいえば、「高校歴」よりも「塾歴」といって過言ではないのです。

 

極端に考えると、希望大学への合格だけを目標とするなら、高校に通うよりも、ただ毎日塾に通って勉強する事が一番効率の良いやり方といえるかもしれませんが、そんな事をしても、もちろん無意味です。

 

学校には学校の役割が、塾には塾の役割があるので、どちらか一方だけ、特に塾だけというのは、後々社会に出た時の事を考慮すれば不十分といえます。

 

筑駒から進学した東大生は、「学校の授業は楽しく仲間や先生も魅力的で、将来について広い視野で考える事が出来たが、受験指導はしてくれないため、塾に通う事は当然の事だった」と述べています。

 

「日経キッズプラス」の座談会における、麻布から東大に進学した学生の発言によれば、その学生は「受験勉強については塾の方が役立ったが、学校の、自分よりも勉強が出来る友達の存在は刺激になった。学校側は受験勉強については塾に頼っていると分かっているから、塾では教えないような事を教えてくれて、そういうところが良い」と考えているようです。

 

どちらの学生も、「根本的な学力や、意欲、関心を高める事については学校で、受験勉強は塾で」というように、学校と塾のそれぞれの役割を理解して使い分けています。日本の教育は、この学校と塾のいわば分業制によって豊かさを得たのです。

 

塾の存在が進学校の自由な校風を助けている

学校と塾とで役割を分ける事には、大きくは2つのメリットがあると考えられます。1つは、受験勉強を塾が担当する事で、学校が受験勉強の指導に縛られないでいられる事です。

 

もしも日本に塾が無くて、学校が受験勉強の指導まで全て行わなくてはならないとすると、どんな進学名門校であっても即戦力的な学力の獲得を優先した授業をしなくてはならなくなります。学校がそのような方針を取りたくなくても、生徒やその保護者が、受験のためにそのようにして欲しいという要望を出すはずです。

 

塾がある事で学校は受験の指導を塾に任せ、目先の学力を追うのではなく、卒業してからいずれ社会に出て、20年、30年と経ってから、ゆっくりと価値が表れてくるような、人生を豊かにする本質的な教育に取り組む事が出来ます。

 

学校は塾の存在によって「大学への進学を目標とする教育と、将来を見据えた本質的な教育との両立」という困難な状況から解放されているのです。

 

そしてもしも学校が受験指導を率先して行えば、それぞれの学校における受験の指導方法が画一化されてしまい、生徒が勉強しづらくなると考えられます。

 

同じ高校の生徒であっても、コツコツ勉強を続けていく学習スタイルの生徒もいれば、部活動などから引退した高校3年生から短期集中で受験にのぞむという学習スタイルの生徒もいます。

 

塾があればそれぞれの生徒が性格や生活、学習スタイルに合った塾を選ぶ事で、それぞれにとってよりやりやすい方法で受験勉強をする事が出来ますが、学校が受験勉強の一切を受け持つようになってしまったら、各生徒は性格などに関わらず、全員が学校の指導するやり方で受験勉強をしなくてはならなくなり、その自由度は格段に下がります。

 

実のところ1960年代ごろまでは、現在ほど塾が多くなかった事もあり、開成や灘、麻布も、生徒に強要して勉強をさせるやり方をしていて、当然生徒たちからの不満の声も大きかったようです。

 

それが1970年代以降における学校民主化の動きや、塾の増加などの社会背景が手伝って、現在では受験勉強の指導に縛られない、自由な校風を保てるようになったのです。

 

日本の教育は塾によって多様性を得ている

学校と塾で役割を分担する事には、教育に幅の広さが生まれるという利点もあります。

 

日本では基本、すべての国民が同じ規格の小学校、中学校、高校、大学に通います。学習指導要領によってカリキュラムが決められ、先進国では珍しくなった検定教科書制度に則って教科書が指定されています。私学であってもこれらの決まりを逸脱する事は許されません。

 

日本における学校制度は、全国どこであっても教育が受けられ、それらが同じように足並みが揃っている事が理想とされます。それは平等という観点から見れば素晴らしいものではありますが、多様性という観点から見ると、実に豊かさに乏しいものです。

 

生態系のバランスを保つために生物に多様性が求められる事と同じように、社会が安定を保つためにも、あらゆる人格や才能を持つ多様性のある豊富な人々が求められます。様々な思想、価値観の人々がいる事で、視野が広くなり、価値観の均衡が取れた社会になります。

 

ですが日本の学校制度の中で育った人々は画一的で多様性に欠ける節があり、そういう人々で構成された社会は、変化に弱いものです。

 

私学は、国公立だけでは画一的すぎる教育の多様性を補うという存在意義を持つといわれます。私学の数だけ校風があり、開成に通えば開成らしさを、灘に通えば灘らしさを身につけ、そこから多様性のある人物が社会に出ていきます。ですが私学の数は限られており、多様性を社会全体に行き渡らせるには不足しています。

 

そこで活躍するのが、塾です。塾は教育委員会にも文部科学省にも縛られませんから、全国約5万の塾で、個性にあふれた教育が行われています。塾それぞれに勉強スタイルがあり、生徒たちは通っている学校の校風やカリキュラムにとらわれずに、自分に合った学習方法の塾を選択して通う事が出来ます。

 

塾では、学校で教員が教えるのとは別のやり方で問題を解く方法を教えてくれたりして、それが生徒の関心や興味を引き出す事に一役買い、また塾の講師たちは、人生や夢について熱く語る事もあるでしょう。学校の教員が語る話とはまた違った社会の見方を知る事が出来るなど、生徒にとって得るものは数多くあります。

 

特に全国で塾が急増した1970年代に塾の講師になった人々の中には、1960年代後半に日本の大学でも続出していた大学紛争で大学を去った、高学歴者が多く含まれました。

 

そういういわゆる「全共闘くずれ」と呼ばれる人々について、河合塾で事務方の要職をいくつも任せられてきた丹羽健夫氏は著書の中で、以下のような旨を書き記しています。

 

「彼らは予備校に期待される正解の導き方などについて工夫をこらして教えたし、教科に対しての愛や思いの丈を語り、そういう講師はほとんどが圧倒的な人気を得た。その人気の秘密は、大学紛争について「あれはなんだったのか」と考え続けて身動きの取れなかったその純粋さが、17、18歳の受験生たちの純粋さの琴線に触れたところにあるのではないか。」

 

そして続けて「彼らの登場は予備校の教壇を変えた。いや教壇だけでなく予備校そのものを変えた」と述べています。

 

彼らが日本の文化たる塾や予備校というものの基礎を築いたともいえるでしょう。それらの学びの場は、制度に縛られる学校とは明らかに違っていました。子供たちは塾の存在によってそれぞれに合った学習スタイルを身につける事が出来るし、学校だけでは得られない刺激を受ける事が出来るのです。

 

「学校歴」だけでは画一的な教育が「学校歴×塾歴」となる事で、無数に増えていきます。日本の学校制度が平等を理想とし、そのために画一的になってしまった事で、それを補う「塾」という存在が自然的に発生したのです。

 

塾が無ければ学校は学校の役割を果たせない

学校においては、受験勉強という短期的かつ目前に迫った目標のための塾とは違って、長期的な視野での教育を行い、それは生徒の人生全体に関わってきます。生徒たちの興味や関心を引き出す事を目的とした授業を中心として、行事や部活動にも力を注ぎ、テストの結果ももちろん考慮されますが、わずかな点差にはさほどこだわりません。

 

しかし塾では、とにかく目前の入学試験を乗り越える事を目標とした指導を行います。基本的には行事も部活もなく、頻繁に行う小テストや模擬試験の中で結果を出させ、それを繰り返す事によって生徒もやる気を引き出されています。

 

そのように学校では長期的な視野での、いわば人格形成に関わるような教育を行い、塾では短期的な視野での、受験勉強を目的とした教育を行います。

 

それら学校と塾の双方の特性を理解すれば、子供や保護者は、将来どのようになりたいかを考慮して学校を選び、自分の学習のスタイルに合わせて塾を選ぶ事が出来ます。日本の教育の長所は、この学校と塾との分担です。

 

近年では、本来ならば家庭でなされるしつけや道徳教育も学校で行うべきという声が聞かれます。国際化がどんどん進行する中で必要になる英語教育や国際理解についても早急に対策を講じるべき、という考えは多くの人の共通するところですし、また産業立国としての国際的な競争力を維持するためには理数教育も手を抜けない部分です。

 

その他にも、インターネットの普及に伴うITリテラシーの教育も求められますし、経済観念を早くから身につけるためにクレジット教育が必要だとか、就活難民や就職してすぐ会社を辞めてしまう若者を減らすためにキャリア教育も必要だし、最近は人間関係を構築する事が苦手な若者が多いからコミュニケーション教育が必要だとの論もあります。

 

これらは、それぞれを取ってみればどれも正しい考えです。ですがこれら全部を学校で担うというのは無理があります。社会が多角的に発展していくにつれて教育にもあらゆる種類が求められますが、学校だけで全てをまかなうというのは到底出来る事ではありません。

 

現況、すでに学校の現場は限界を迎えています。学校は本来、学校でしか行えない教育を中心とすべきで、学校でなくても出来る事は学校でない場所に任せるべきなのです。

 

しかし、学校とは別の場所にそういう教育を任せようとすると、どうしてもお金がかかります。国としても教育に必要以上の予算をまわしたくないという思いがあって、学校という既存の仕組みの中で出来る限りをまかなおうとします。そしてあらゆる負担の向かう先が学校になり、それを背負った教員はどんどん疲弊し、トラブルが増えていくのです。

 

その点塾がある事で、受験の指導については、学校はそこまで負担を強いられなくて済んでいます。文科省は2000年ごろ、塾の動きを牽制しようと、19時以降の塾の授業を禁止するといった内容の「塾禁止令」を用意していました。もし今このような塾禁止令が出て、受験の指導についても学校が担わなくなってしまえば、学校は完全に崩壊するでしょう。

 

現状に加えて受験の指導までも学校が担う事になれば、保護者は行事などよりも受験勉強に時間を割いてほしいと求め、体育や美術などの授業を減らして、英語や数学など、より受験に役立ちそうな授業に充ててほしいと求めるでしょう。受験に向けての模試の点数が芳しくなければ、担任に責任を追及する保護者が現れないとも限りません。

 

塾の存在が、受験勉強についての負担から学校を多少ならず救っているという事を、社会はもっときちんと自覚すべきです。

 

学校と塾の役割が逆転した時代があった

先の項目において、論点を分かりやすくするために「学校では将来を見据えた長期的な視野での教育を行い、塾では入試の合格を目標とした短期的な視野での教育を行う」と述べましたが、実際のところは、そこまではっきりとした線引きがあるという事でもありません。学校でも受験対策をしますし、塾でも将来を考慮した話をします。

 

むしろ、それらの立場が逆転してしまう事すらあります。丹羽健夫氏は著書において、第二次ベビーブームの子供たちが中高生になり、大学入試競争が激化する事が予想された1985年ごろ、学校が受験指導に力を入れるようになって起きた変化について、要約すると以下のように記しています。

 

「かつて学校と予備校の間には、暗黙の掟のようにして分業があった。高校では教科の本質、例えば数学ならばなぜ人類が数学を手にしたか、国語ならば教師がなぜ『古事記』に魅了されたかを語るなど、問題の正解とは直接関係のない事柄をも教え伝える。対して予備校では大学入試問題を解く技法を教えた。

 

予備校講師にとって、生徒を相手に問題を解く技術を伝授する事は、至福であった。こういう解き方もあればこういうやり方もある、といくつもの別解を取り出して見せ、最後に切り札といえるやり方を出して見せる。生徒たちもそれに歓喜し拍手を送る。あの夢のような分業の日々は消えてしまったのか。

 

学校としても、教科の本質的な授業などしていては入試競争には勝てないし、そうなるとPTAや教育委員会から叱られる。だから激化する入試競争に対応するために、正解発見の授業に走らざるを得なかったのだ。」

 

続けて、結果として学校が教科の本質を語るような授業を行う事が減り、それを補うように予備校の講師がその代役を務めるように教科の本質についての授業をしたという事が書かれています。

 

1992年は現役生の3人に1人が浪人を余儀なくされ、第二次ベビーブーマーによる大学受験競争の最も過酷な年となりましたが、今は大学全入時代です。よって高校の授業は昔のような本質的なものに戻っているべきですが、第二次ベビーブーマーの受験競争以降、高校でも大学受験の指導、対策をする事が常識になって、元に戻らなくなってしまっています。

 

「塾いらず」の学校は、本当に塾が必要ないのか?

今は、ベビーブームはおろか少子化が問題になっている世の中ですから、塾や予備校、また私学にとっては苦しい経営環境です。塾は生徒数が減ったらそれに合わせて教室も縮小するという対応が出来ますが、学校はそういうわけにもいかないので、私学同士の生徒の獲得争いは、年々激しくなっています。

 

そうした生徒集め競争の中で、一部の私学は進学校化をアピールする事で、その争いをしのごうとしています。そういう学校のキャッチコピーによく使われるのが「面倒見の良さ」、加えて「塾いらず」です。塾がこれまで担ってきた受験指導という働きを、進学指導に特化した指導内容として、学校にも備えようという動きです。

 

丹羽健夫氏は、第二次ベビーブーム世代による大学受験競争のころ、学校が塾のように受験指導をしていたと著書に記しています。そのころの様子を描いた部分は、以下のようなものです。

 

「入試競争が激しさを増す中、新設高校が県やPTAの期待に応えようと、補習授業に力を入れた結果、東大に1人合格させたと騒ぎになり、それをきいた進学実績二番手の高校が早朝補習を始めた。

 

合格実績不振の高校は、県教育委員会から「県トップの進学校であるのに東大への現役合格者が10人にも満たないとは」と叱咤され、そのためにトップ進学校としては異例の補習を実施するなど、全国の高校が進学実績を出すために様々な手を尽くしていた。

 

そうして予備校の担うべき進学指導を大学が率先して行うようになり、暗記や過去問、正解に辿り着くためのあらゆる手段を教えるという授業があちこちで見られるようになった。」

 

つまりこのころの公立高校は、受験者が減る中で生徒を集めるための対策として、現在の私学と同じように「面倒見の良さ」と「塾いらず」を売りにしていたのです。

 

しかしこういう動きはあまり良いものではありません。塾が受験に合格する事を目標とした短期的な勉強を受け持ってくれる事で、学校はより本質的な、将来を見据えた授業をする事が出来ていました。ところが学校が短期的な視野での勉強も受け持つと、それまで学校が行っていた長期的な視野での勉強がおろそかになります。

 

学校と塾が役割を分担する事で日本の教育は多様性を保っていました。それがどちらかの負担が増えたり、役割を放棄したりするようになると、そのバランスが崩れ、多様性は生まれなくなってしまいます。

 

塾はそもそも、学校の授業についていけない生徒のために存在していますし、同時に、学校の授業では物足りないという生徒のためにも存在しています。それだけ広い範囲の習熟度の生徒に対応した受験指導を学校で行うためには、かなり細かくクラス分けをしなくてはなりません。

 

それに生徒それぞれの学習スタイルに合った勉強しやすい塾を選べるという点も塾の良さの1つでしたが、学校が生徒全員に対して同じように受験勉強を指導するとなると、生徒は自分に合った指導を希望出来ず、それでは学力も伸び悩んでしまいます。

 

塾講師が学校の教員とは違う解き方を教えてくれて、それが生徒の教科への興味関心を引くきっかけにもなりますが、学校の授業と同じ教員が受験勉強の指導も行うとなると、そういった事も起こりえなくなります。

 

塾では他にも、他校の生徒と出会う事が出来るというメリットもあります。他校の授業や行事の話、校則や気風まで詳しく聞く事が出来ますし、学校にはいないような才能や性格を持つ生徒に出会う事も出来ます。

 

また学校以外にも塾という自分の所属する居場所が増える意味合いも持ちますし、こうしたあらゆる機能を学校だけで補うというのは無理な話です。

 

子供の豊かな成長には学校と塾の両方が必要

学校は塾の役割を真似る事ではなく、学校が本来すべき部分に力を入れてアピールすべきです。学校は長期的な視野での教育という役割を、塾は短期的な視野での教育という役割を、それぞれがきちんと果たす事でこそ、生徒たちが受けられる教育は豊かになり、思慮深く心豊かな人間に育っていけるのです。

 

子供たちは学校の授業の中で夢や理想を抱き、塾での勉強の中で現実として立ちはだかる壁にも立ち向かわなくてはならないと実感します。誰が言い出したわけでもなく、日本の教育はそのように形成されてきました。

 

ですから、学校だけで良いという事も無ければ、塾だけで良いという事もありません。いくら塾にメリットが多いとはいえ、塾に通い始めてそちらでの勉強に身が入りすぎてしまい、学校が二の次になるという状況はいけません。

 

学校と塾、それぞれを活かして子供たちが豊かに成長していくためには、保護者や学校の教員や塾講師が、学校と塾の持つ役割や本分をきちんと把握し、子供に伝える事が出来なくてはならないのです。

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