小さな子どもの脳は高い柔軟性を持っている
脳に障害がある子どもが、周囲や医師などの見立てに反してときどき驚くべき発達を示すことがあります。こうしたことが起きるのはなぜなのでしょうか。
子どもの成長の基本とは
大阪は羽曳野市のくるみ共同保育園では、20年ほど前から障害児の保育を行っています。現在でも社会性やコミュニケーション面でハンデを抱える自閉症、ダウン症、脳の容積が少なくなる小頭症などの障がいを持った子どもたちが数名通っています。
子どもたちは、神経に刺激を与え、また体全体の筋肉を鍛えることのできるリズム体操などをして元気に生活しています。子どもが成長していく際の基本になってくるのは、毎日毎日の食事、遊び、睡眠といったような普通のできごとです。これは障害の有無に関係ありません。
この保育園では、子ども同士でケンカをしたり、仲直りをしたり、かばいあったり、お庭で裸足で遊んだり、お絵かきをしたりと、ごくごく普通の関係性が見られ、それが障がいを持った子どもたちの発達を促して専門家たちを驚かせているといいます。
子どもの脳の柔軟性とは
くるみ共同保育園に勤めているある女性は、自分自身も障害児を娘に持っています。この方の娘さんは10万人に1人いるかいないかといった難病であるマリネスコ・シェーグレン症候群という稀少疾患を持って生まれたのです。それでもこの女性は、自分の子どもの脳が持っている可能性を信じていたそうです。
「脳が持っている可能性」とは、脳の可塑性と呼ばれる性質のことです。人間の脳は生まれてから一定の時期までは機能が完全に定まっておらず、外界から受けるさまざまな刺激によって脳の機能を組み替え直していけるという柔軟さを持っています。可塑性とはこうした性質のことを言う言葉です。
マリネスコ・シェーグレン症候群を発症している子どもには小脳症状があり、運動失調が目立ったり、白内障や筋肉の力が下がるといった症状を持っています。はじめにMRI(磁気共鳴画像装置)を使った診察を受けたときには、娘さんの小脳がネズミの小脳よりも小さく、一生歩くことはできないだろうと言われたといいます。
娘さんは生まれてから11ヶ月が経過しても寝返りをすることができませんでしたが、くるみ共同保育園での11年を経て、現在では成人してグループホームで生活を始めています。また、歩行器を利用することなく自分一人で歩けるようになっており、電車を利用するなどして外出もしているそうです。
また、くるみ共同保育園には重い自閉症を抱えた児童もいます。この子どもは診察した医師が言語を使った意思疎通は無理だろうと診断したほどの重い症状でしたが、保育園に入ってから3年ぐらいしたころには友人の家に自分一人でお泊まりができるほどになったといいます。意思疎通の方も、「行こ」「開けて」などと口に出してして欲しいことを頼めるぐらいまでになったそうです。
脳の機能に障害のある子どもたちであっても、このような形で驚くべき回復を遂げることがあるわけですが、その秘密は子どもの脳にのみできるあるタンパク質の働きによるものではないかと言われています。
生まれたばかりの赤ちゃんの脳においては、シナプス結合によって神経細胞と神経細胞とをつないで回路網がどんどん形成されていきます。そしてそこにいろいろな感覚からの刺激が入ってくることにより、よく使う大事な回路は残され、必要なさそうなものは消えていきます。そうやって大人と同じような神経回路網ができあがっていくのです。
こうした回路網の形成のプロセスでは数多くのタンパク質が機能しています。こうしたタンパク質のうち、シナプスの可塑性に大きな働きをするNR2Bサブユニットなどは赤ちゃんの時期とその後子どもがまだ幼いころに一番作られ、その後の時期になると作られる量が大きく減ることが分かっています。
将来的に、こういったタンパク質が不足していたり、あるいは作ることができないような場合であっても、遺伝子を操作することによって新たに作り出すといったような治療方法が確立する日が来るかもしれません。
脳と「話す」
脳に障害がある子どもは時折驚くべき発達を示すことがありますが、どういった要因でこうした発達が起きているのかはまだはっきりしたことが分かっておらず、現在はそれを具体的に突き止めようとする研究が行われている段階です。
例えば金沢大学では光トポグラフィーという装置を使い、刺激を受けたときに脳にどういった変化が起きるのかをリアルタイムで調査するという研究を行っています。金沢大学や東京学芸大学、七尾病院といったところが協力して行っているもので、生命科学、教育、医学、訓練といったさまざまな分野を横断した形で広く障害児の脳の活性化や脳の発達について研究するものです。
この重度障害児に対する脳研究プロジェクトでは、東海地方や北陸地方にいる施設入居者を対象として調査を行っており、光トポグラフィーによるデータの取り方についてのマニュアル作成も行っています。
この研究では、誕生してから3ヶ月目の赤ちゃんと同じぐらいの感覚しか持たない重度の心身障害を持つ子どもに光トポグラフィーをつけ、その状態で触覚や声かけなどによる刺激を与えて子どもの脳の変化を見ます。すると、重度の心身障害を持っている子供であっても、脳の第一知覚野がきちんと活性していることが分かったのです。つまり、こうした障害があっても刺激を脳で認識できていることを示しています。
重度な障害を持った子どもたちは自分の言葉などで自分の意志を表現することができません。しかし光トポグラフィーという装置を使えば、触覚や声かけといった形での働きかけに対して子どもの脳が反応できているのかどうかをその場で見ることができます。いわば、障がいを持った子どもの脳と「話す」試みだと言えるかもしれません。
この脳研究プロジェクトでは、研究の結果を土台として脳の発達を支援するための指針作りをも視野に入れているとのことです。